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仏教

物惜しみ

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 「これは私の物だから。」といって地位や肩書や名誉、または自分の持っている物に執着する人が世の中にはたくさんいるものです。しかし、そのように言っている自分自身すら「自分の物」ではないのにどうして執着する必要があるのでしょうか。

 ではなぜ自分自身すら自分の物ではないのかという点について、これに関しては例えを持ってきて説明するほうが適当かと思われます。
 例えば、自分自身が我が物であるというのであれば、「我が身よ、老いることなかれ。また病になることなかれ。死ぬことなかれ。」と願ったならば、それは叶うはずです。しかし現実はどうかというと、叶うことはまずありません。次に「愛する者と別れたくない。怨みのある人とは会いたくない。求めて得られないというのは嫌だ。外界(現実)より全ての感覚器官(眼や耳や鼻や舌や身や意識または思い)から受けることによって苦しむのは嫌だ。」と願えばどうか、先と同じように叶うことはまずありません。これらのことにより、自分自身ですら思うようにならないというのは理解できたのではないかと思います。


 また例えになりますが、例えば人からいただいた物があるとして、それを自分では処理しきれないぐらい物をいただいた場合、皆様はどうされるでしょうか。家族や親族にあげたり、または近所の人々にお裾分けにいったり、お世話になっている人にお渡しする、これは人によりやり方は異なるでしょう。
 しかし、いただいた物が多すぎて自分で処理しきれないと分かっていても、人にあげるのを極端に嫌がる人もいます。ではなぜこの人は他人にあげるのを極端に嫌うのでしょうか。答えは簡単で、それは物惜しみをしているからです。ちなみにこのような人は、いただいたものを後生大事に保管しているのですが、自らも時と共に老いていくように、いただいた物も時とともに劣化していき、やがては食べ物であれば腐ってしまい、また物だとしても壊れてしまうのです。他の人がこれを聞いたり見たりすると口を揃えて、「腐らしたり壊したりするぐらいなら人にあげればいいのに。」と言うのではないでしょうか。それでもこの人は絶対に人にあげたりすることがないのです。例外として賞味期限の過ぎた物や、自分の嫌いな物に限りくれたりします。迷惑極まりないと思うでしょうが、本人からするとこれは親切でしていると本気で思っているのです。ちなみにこのような人は総じて身銭を切らないので、身銭を切って物を渡している人の事が全く分からないのです。


 では、この物惜しみはどのようにしたらなくなるのか、それは「施すことによってのみ、物惜しみの心はなくなる。」といわれます。つまりは人に物を与えることによってのみ、卑しい心がなくなっていくのです。それは物だけではなく、心もそれに含まれます。

 日本では昔から既婚されている男性を旦那と呼びます。この言葉はインドから出た言葉で、元を「ダーナ」といいます。このダーナとは何か、それは「施す者」と訳されます。ではなぜこの「施す者」が男性の呼び方になったのかといいますと、それは「家族に糧(現在でいう給料)を運んでくる者」としての意味が一つと、もう一つが「一家を安心させることができる者」としての意味があります。日本では男性の呼び方として「主人」「旦那」「家長」「大黒柱」、これらの言葉を用いますが、どの言葉を見たとしても、一家を安心させることができる者としての呼称です。つまりは、「糧を運んでくる」事と「一家を安心させることができる」、この二つが実行できない人は旦那とは呼ばれないのです。(お恥ずかしながら私はできていると断言できません・・・。)
 

 施しに関しての説明の際に男性の旦那という言葉について出しましたが、これはひとえに施すのは物だけではなく、相手を気遣う心でも問題ないということをいいたかっただけです。ただし、人に感謝している時というのは、有難い(有る事が稀である)と思っているので、身銭を切ってでもその人に何かしないと申し訳ないという思いがあるので、勝手に頭を下げながら「お世話になりました。」と言えるのです。これだけではなく、現実そのお世話になっている人が困っていたら、自分の身を犠牲にしてでも守らなければいけないと思い行動してしまう、これもまた情のある人間であれば仕方のない事ではないでしょうか。


 ただ、ここで注意していただきたいのは、「あげた自分」と「あげた人」と「あげた物」に悪い意味で執着しない事です。なぜなら「私が、あの人に、これをあげた。」と後になって思ってしまうからです。その驕りやたかぶりが出てしまうと、せっかく良いことをしているのに台無しになってしまうからです。できればそう思うのではなく、施した事によってその人が喜んでいるのを見て自分も喜ぶことができればいいのです。最終目標は、「施す縁をいただき、それを施すことによって成した善行に歓喜し、その縁をいただいた人に対して感謝する。」ですが、中々これは難しい事かもしれません。


 自分の身ですら我が物ではありません。だとすれば、物はもちろんのことながら我が物ではありません。だからこそ、自分の持っている物(心)を惜しみなく与えていくことを目標に努力していくのです。人間的に輝きを放てるように・・・。
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