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仏教解説

58 仏教とはなにか -アショーカ王の後- ⑤

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 アンドラ王国では仏教と並んでバラモン教も大いに栄えました。バラモン教の信者が仏教僧侶のために石窟を作ったこともあり、宗教間の反目はまず見られなかったようです。王と諸侯たちは仏教を保護しながらバラモンの色々な祭式も行い、馬祠さえも遂行しました。近代のインド教の代表的な神、シヴァの崇拝も広く行われました。このようにこの王国では色々な形態の信仰が相争うことなく栄えたのでした。このような背景を理解しておくことは次の時代に表面化する仏教の新しい動き(大乗)の起原を理解するために非常に重要です。仏教史をひもとくと、南天竺のバラモンが仏教僧侶となったという記事がありますが、それはこのアンドラ王朝やその後継者の治下における出来事です。

 このようにして、仏教はその勢力を著しく伸ばしていきますが、その反面においては、このような環境においては知らず知らずのうちに仏教そのものが変化していったに違いありません。アショーカ王の近いしたようなブッダの教えにおいては、血なまぐさい犠牲を伴う祭式は許されるはずがありませんでした。その場合には二つのうちのいずれかを選ばなければなりませんでした。アショーカ王は仏教を選び、プシヤミトラはバラモン教を選びました。(なお、古代ヨーロッパでも同じで、民族の祭式の供犠を復活しようとした皇帝ユリアヌスは、キリスト教徒からは「異教徒」と呼ばれた)

 しかしアンドラ王国では事情が違っていました。彼らはもともとアールヤ人ではなかったから、バラモン教もまた彼ら自身の民族宗教ではありませんでした。バラモン教も仏教も、ともに文化的に優勢な北インドのアールヤ人から輸入したものでした。ここでは宗教に対する寛容さが徹底していました。つまり、根本的に相異なる宗教を同時に進行することもできたのでした。このようにバラモン教も仏教もこの土地ではそれぞれ互いに影響しあって、新しい形態を発展させることができました。

 仏教史について見ると、大体西暦紀元頃から以後に、マハーヤーナ(大乗)が盛んになり、その派の学者が相次いで新しい学説を展開させ、それと並んで大乗経典が次々に世に現れてきます。同じマハーヤーナといっても、菅らずしもすべて同じ思想ではありませんが、前の時代の仏教(ヒーナヤーナ:小乗)と比較すると次の点が注目できます。

 第一、小乗では個人的な悟りが重要なので、厳格な僧団生活が要求されましたが、大乗では実際生活との密接な関係に重点をおき、広く万人の救済を問題としていました。

 第二、大乗では宗教的な情操(優れたもの)方面を発展させ、ブッダを神格化し、他の菩薩たちと一緒に、信仰の対象とするようになりました。小乗ではブッダ釈尊を修行の模範としていました。

 第三、つまり礼拝の対象として仏像その他の礼拝像を製作するようになります。古い時代の仏教はブッダを形の上に表現することをむしろ避けていました。

 第四、これと関連して宗教的芸術的な文学作品が盛んに編集されるようになります(大乗経典)。しかし、これらの新しい事が起こり始めたのはかなり古く遡るものと考えられます。

 大乗はある意味では思想的発展であるとともに、ある意味では仏教の大衆化でした。前の時代の仏教の派のうちでも、大衆部は始めから俗人の信者と提携していましたが、大丈夫においては更にその傾向が勧められます。

 大乗仏教の起原は南インドのみにあるわけではありません。ある意味では、それにも劣らず西北インドではマハーヤーナの誕生のために重要な役割を演じました。それは、やはり外来の支配者の統治下においてのことでしたが、今度はギリシア人ではなく、別の民族でした。マハーヤーナそのものの説明に移る前に、まずクシャーナ王朝のカニシカ王とその背景について見てまいりましょう。*

*渡辺照宏著 「仏教のあゆみ」
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