FC2ブログ

仏教解説

57 仏教とはなにか -アショーカ王の後- ④

 ←56 仏教とはなにか -アショーカ王の後- ③ →58 仏教とはなにか -アショーカ王の後- ⑤
 アンドラ王国の名は古く「ブラーフマナ書」にも現れ、ドラヴィダ人の国として知られていました。ヴィンドヤ山脈の南にあって、東に流れるゴーダーヴァリー河とキストナー河との流域を占有し、マウルヤ王朝のチャンドラグプタ王の頃には、十万の歩兵、二千の騎兵、一千の軍象という非常に強力な軍隊を所持し、城壁を廻らした三千の都市を有していたと言われています。アショーカ王の頃はマウルヤ王朝の支配下にありましたが、この偉大な王の没後ただちにアンドラ王国は地方分権の気運に乗じて、西にも勢力を及ぼし、ゴーダーヴァリー河の源近くまで国の領域を収めましたが、ついに西暦前二十八年頃、前に述べたようにカーンヴァ王朝を倒して中央にまで進出したのでした。アンドラ王朝は西暦紀元後二百二十五年滅亡するするまで続きました。この王朝の治世には領土拡張のための戦乱も多かったのですが文化的にも隆盛で、王の中には自ら文学を十分に収めているものも何人かいました。

 またそれと同時に、商工業も栄え、様々な特殊技能者も多く(医師、薬剤師、書記、黄金細工人など)職業別のギルドも発達して銀行の機能を持っていました。この王国はまた外国貿易によって莫大な利益を収めました。

 こうした物質面の豊かさの庇護のもとに、宗教もまた大いに栄えました。現在もデカン地方に数多く残っている仏教の石窟は、ほとんどすべてこの王朝治下にできたものです。これらの石窟は仏教僧侶が雨季の間滞在するために作られたもので、壁画で有名なアジャンターの石窟群もその例です。山の傾斜を利用して作り、堅牢な石造で中に木造の骨組を施したものもありますが、大体において大規模で多数の僧侶を収容することができます。後にはインド教などの石窟もできましたが、もとは仏教のために作ったものが多く、全インドに散在する約一千二百の石窟のうち七十五パーセントは仏教に属するといいます。石窟には礼拝堂があり、その奥にストゥーパ(塔)を祀っています。ボンベイの東南百キロ余りの地点にあるカールリーの石窟は有名ですが、正面の入り口から入り、左右に並ぶ石柱の列に導かれて奥のストゥーパに達します。奥行三十九メートル、幅十一メートル、高さ十三メートルの壮大なもので、柱に施した彫刻がまた素晴らしいです。この礼拝堂の両側には三層の石窟の僧院があります。

 これらの石窟を維持し、僧侶の生活を保証するために各村落や地方は、近くの都市のギルドに投資し、その収益によって賑わいました。仏教僧侶に寄贈される新しい法衣もそういう方法で作られました。つまり少なくともこれら石窟が多数残っているボンベイ周辺数百キロの地域では、僧侶の生活は保証され、修行や思索に専念する余裕が十分にあったであろうことが想像できます。*

*渡辺照宏著 「仏教のあゆみ」
スポンサーサイト



もくじ  3kaku_s_L.png 日常
もくじ  3kaku_s_L.png 四国遍路
もくじ  3kaku_s_L.png 結衆
もくじ  3kaku_s_L.png 仏教
もくじ  3kaku_s_L.png 仏教解説
もくじ  3kaku_s_L.png 未分類
もくじ  3kaku_s_L.png 巡礼
【56 仏教とはなにか -アショーカ王の後- ③】へ  【58 仏教とはなにか -アショーカ王の後- ⑤】へ

~ Comment ~

管理者のみ表示。 | 非公開コメン卜投稿可能です。

~ Trackback ~

卜ラックバックURL


この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

  • 【56 仏教とはなにか -アショーカ王の後- ③】へ
  • 【58 仏教とはなにか -アショーカ王の後- ⑤】へ