仏教解説
53 仏教とはなにか -経典- ⑤
ブッダは普通の聴聞者に対しては、まず施与をすすめました。それは必ずしも仏教教団に対しての布施のみではなく、社会事業的な意味をも含めていました。相手がどのような人かにかかわらず施与をすることは、人間の本能の所有欲を制御する意味において、信仰生活に入る第一歩です。次に、在家者に相応しい生活規定(殺生、盗み、邪淫、虚言、飲酒の禁止)を守ることを勧め、その結果、現世には安らかに暮らし、未来は安楽になるであろうと教えました。在家信者に対するこの根本的な教訓は、ブッダの弟子達も常に繰り返したに違いありません。あるいは、もっと進んだ人々には四諦、八正道などの道理も説明したことでしょう。ブッダの時代にも大商人スダッタなどは、平凡な仏弟子のかなわない程の見識を持っていました。
しかし、それは例外であって、一般の人々はもっと興味ある話題を求めていたに違いありません。パーリ語聖典にも、漢訳やチベット語訳の大蔵経の中にも、現存の梵語経典にも「ジャータカ」と呼ばれる説法文学の部門があり、多くの興味ある物語を収めています。
「ジャータカ」は「本生話(本生譚)」といい、ゴータマ・ブッダが過去の多くの生涯の間に、あるいは人に生まれ、あるいは動物に生まれ、色々の経験をした物語の形式で、日本の読者にもよく知られた話が多いです。話の資料は仏教的というよりも、むしろ一般のインド民衆が大昔から語り伝えた説話を取り上げ、仏教の教訓の枠の中にあてはめたものです。インドでも、後にはバラモン側の手で説話集が編集され、近代インド文学にも連なりますが、これらの説話はペルシャ、アラビアなどを経て、ヨーロッパの童話の中にはインド起原のものが少なくありません。
古くからインド民衆のものであったこれらの説話は、まず仏教徒の手で磨かれ集録されました。パーリ文ジャータカには五百以上の説話が含まれますが、それぞれ詩と散文とからなり、詩の部分の方が古いです。他の「経」と同じく「ジャータカ」も、すべてブッダ自ら語ったと言われています。場合によっては、ブッダ自身がこういう物語の形式で教えを説いたということもあり得るかもしれませんが、この五百以上の説話すべてをブッダが説いたとすることは、内容から言っても無理でしょう。ブッダの後に、教団の中でだんだんと集成されたと見た方が自然です。
とにかく「ジャータカ」は実社会の色々な場面を描写しているので、西暦紀元かその二、三百年前のインド人の実際生活を知る上ではきわめて貴重な文献なのです。教団内でもこうした説話を語り合ったでしょうが、とくに在家信者に対しては手頃な話題であったに違いありません。
「ジャータカ」の成立年代については、サーンチーの仏塔の石垣の彫刻が何よりの証拠となります。ここに見出される浮彫は明らかに私たちの知っている「ジャータカ」の物語を描写したものであって、このことからみれば、アショーカ王の時代、またはそれからのあまり降らない頃に、仏教の教団で「ジャータカ」が盛んに利用されていたことがわかります。
パーリ語聖典は幾つかあった伝承のうちの一つにすぎず、唯一の経典集録ではありません、またブッダ入滅後四百年程も経ってから現在見るような形で編集されました。つまりこれをもってブッダの宗教活動の忠実な記録と見るわけにはいきません、それにもかかわらず、ブッダの本当の教義がこのパーリ語文献の集成、またはそれに相応する他の大蔵経の中のどこかに見出されることは間違いないです。しかし、そのうちのどこがそうかと言われると、誰も自信をもって答えるわけにはいきません。仏教の原初形態を再現しようという試みは厳密な意味では不可能に近いです。しかし、仏教において生活の基準を求める人々は、この理論的困難を実践の上で克服してきました。おそらく今後もそうしたことが繰り返されることでしょう。*
*渡辺照宏著 「仏教のあゆみ」
しかし、それは例外であって、一般の人々はもっと興味ある話題を求めていたに違いありません。パーリ語聖典にも、漢訳やチベット語訳の大蔵経の中にも、現存の梵語経典にも「ジャータカ」と呼ばれる説法文学の部門があり、多くの興味ある物語を収めています。
「ジャータカ」は「本生話(本生譚)」といい、ゴータマ・ブッダが過去の多くの生涯の間に、あるいは人に生まれ、あるいは動物に生まれ、色々の経験をした物語の形式で、日本の読者にもよく知られた話が多いです。話の資料は仏教的というよりも、むしろ一般のインド民衆が大昔から語り伝えた説話を取り上げ、仏教の教訓の枠の中にあてはめたものです。インドでも、後にはバラモン側の手で説話集が編集され、近代インド文学にも連なりますが、これらの説話はペルシャ、アラビアなどを経て、ヨーロッパの童話の中にはインド起原のものが少なくありません。
古くからインド民衆のものであったこれらの説話は、まず仏教徒の手で磨かれ集録されました。パーリ文ジャータカには五百以上の説話が含まれますが、それぞれ詩と散文とからなり、詩の部分の方が古いです。他の「経」と同じく「ジャータカ」も、すべてブッダ自ら語ったと言われています。場合によっては、ブッダ自身がこういう物語の形式で教えを説いたということもあり得るかもしれませんが、この五百以上の説話すべてをブッダが説いたとすることは、内容から言っても無理でしょう。ブッダの後に、教団の中でだんだんと集成されたと見た方が自然です。
とにかく「ジャータカ」は実社会の色々な場面を描写しているので、西暦紀元かその二、三百年前のインド人の実際生活を知る上ではきわめて貴重な文献なのです。教団内でもこうした説話を語り合ったでしょうが、とくに在家信者に対しては手頃な話題であったに違いありません。
「ジャータカ」の成立年代については、サーンチーの仏塔の石垣の彫刻が何よりの証拠となります。ここに見出される浮彫は明らかに私たちの知っている「ジャータカ」の物語を描写したものであって、このことからみれば、アショーカ王の時代、またはそれからのあまり降らない頃に、仏教の教団で「ジャータカ」が盛んに利用されていたことがわかります。
パーリ語聖典は幾つかあった伝承のうちの一つにすぎず、唯一の経典集録ではありません、またブッダ入滅後四百年程も経ってから現在見るような形で編集されました。つまりこれをもってブッダの宗教活動の忠実な記録と見るわけにはいきません、それにもかかわらず、ブッダの本当の教義がこのパーリ語文献の集成、またはそれに相応する他の大蔵経の中のどこかに見出されることは間違いないです。しかし、そのうちのどこがそうかと言われると、誰も自信をもって答えるわけにはいきません。仏教の原初形態を再現しようという試みは厳密な意味では不可能に近いです。しかし、仏教において生活の基準を求める人々は、この理論的困難を実践の上で克服してきました。おそらく今後もそうしたことが繰り返されることでしょう。*
*渡辺照宏著 「仏教のあゆみ」
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