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仏教解説

52 仏教とはなにか -経典- ④

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 上座部は教団の表面に立って活躍する長老たち(上座)の指導する一派でした。仏教の教団には指導者という制度は認められておりませんでしたので、必ずしも教団の全ての人がその下についたわけではありませんでした。上座部ではマハーカッサパ以来法統(ほうとう:仏法の伝統)を継いだ人々の系図を持っていましたが、これは必ずしも教団全体の統理(とうり:統一しておさめること)ではありませんでした。

 上座部と正反対の行き方をしていたのが大衆部です。大衆というのは、必ずしも人数が多いという意味ではありません。上座部は一途に伝承を重んじ教団の規律を厳重に守ろうと努めました。これはいわば純粋に出家者のための仏教でした。それに反して大衆部では初めから在家の信者の参加を歓迎し、実際社会と接触し、形式よりも真理の追究に重点を置いていました。大衆部が後世の大乗仏教と関係があるかもしれないと推測される理由の一つはここにあります。

 しかし上座部にせよ、大衆部にせよ、中国や日本に見られるような宗派でないことを注意しなければなりません。教理の上で見解の相違があったにしても、また戒律の細かい点で意見の食い違いがあったにしても、上座部も大衆部も同じ僧侶の集団生活を営み同じ規律のもとにありました。例えば奈良仏教に対する平安仏教とか、鎌倉時代の宗派的対立などは、後世でもインドでは絶対に見られませんでした。日本でいうような宗派宗旨などはインドの仏教ではありませんでした。

 個々の経典が集積されて、ついには大蔵経、三蔵としてまとめられますが、パーリ聖典のうちで「三蔵」という言葉が出てくるのは「ミリンダパンハ(ミリンダ王の問い)」が最初で、このお経は西暦始め頃の成立と考えられます。三蔵というのは「三つの容れ物(ピタカ)」ということで律と経と論とを指します。しかし、ピタカやニカーヤ(経典の集録)という言葉はこれよりも古いです。

 アショーカ王が太子の時に駐在した中インドのウッジャインの近くに今日でもなおサーンチーの巨大な仏塔の群を仰ぐことができます。中でも第一大塔の大きさは直径三十七メートルの円盤で高さ十七メートルです。特に素晴らしいのはその周りに廻らした石垣で、東西南北の四門をそなえ、ふんだんに彫刻を施し、全体が仏教美術の一大殿堂を成しています。これはアショーカ王の建設であり、紀元後第一世紀までの間に何度も手を加えられましたが、興味あるところは、建設に力を尽くした尼僧の名前が記してあり、その名に「ニカーヤに通じたる」とか「ピタカに通じたる」とか「法を説く人」とかいう称号が加えられ、ある尼僧については「経に通じたる」と言われています。これらの集録から見て、当時すでに「ピタカ」とか「ニカーヤ」とかいう集録が一般に行われ、それらに精通していることが尼僧の一種の肩書として通用したことが分かります。この後に、中国でも「三蔵」または「三蔵法師」が訳経僧の称号となりました。もちろん、それが後世のピタカやニカーヤと必ずしも同じものではなかったかもしれません。「法を説く人」という称号は特に宣教布教に熟達した人をいうのでしょう。冠婚葬祭などの宗教儀礼を行わない仏教教団が一般民衆と接触するのは説法による他ありませんでした。「法を説く人」は教団の内部でももちろん重要には違いありませんが、それは社会的にも必要な存在でした。彼らは世間の人々に向かって何を説いていたのかを見ていきましょう。*

*渡辺照宏著 「仏教のあゆみ」
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