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仏教解説

51 仏教とはなにか -経典- ③

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 これまで見てきたものは「経」の場合ですが、教団の規律に関する「律」は毎月一定の時期に戒律の根本の一つ一つをそれぞれの支部で朗読して、各自のこれまでの行いをを反省することになっていたから、真面目な僧たちは普段からよく覚えていたはずです。そして、やはり多少の地方的差異が段々とできていったことでしょう。

 マハーカッサパたち五百人がラージャガハで最初の結集を行った後に、同じく長老のプラーナに出会いました。彼らは結集のことを報告し、その結果を承認するように申し入れました。プラーナは次のように答えました。「諸君が結集したことは結構なことだが、私は自分がブッダから親しく聞き親しく学んだとおりに覚えておくことにしよう。」この事実から見ても、第一回結集は、教団全部によって承認されたのではなかったことは明らかです。ある伝承によると、マハーカッサパの一派と同時に、別の一派が独立して結集を行ったともいいます。

 とにかく結集によって「律」や「経」の本文が確認され、またその後、口から口へと伝えられるようになって、教えの内容のみではなくその用語までも固定化されるようになりました。ブッダの在世中には聖典の用語は流動的でしたが、ブッダの入滅後その言葉をできるだけ忠実にもとのまま保持しようという意識的な努力が行われたことは明らかです。その上、時代が変わり、活動舞台が移るにつれて、かつては生きた言語であったものが、聖典専門用語となって固定化しました。その言語の最終の形が決定されたのは西暦前第一世紀頃のことと思われます。これがパーリ語です。同じくその頃のことでしょうが、聖典を新しく編集して順序を整え、文体や内容を統一しました。パーリ語聖典においては同じような決まり文句が異なった状況の記事に現れ、時としては前後の文脈を考えるといかがかと思われるような繰り返しが違った経典に見られることから考えても、現存のパーリ語聖典が自然に集積されてできたものではなく、一度集められた資料を一定の計画のもとに編集したものとしか考えられません。

 パーリ語といっても新旧の層の差が明らかに区別され、同じ経典といっても比較的古い偈文(定型詩)と比較的新しい散文の部分とがあり、その各々の中においても区別がつけられる場合もあります。要するにパーリ語はブッダ時代の教団用語から由来していることは間違いないとしても、今日伝わる聖典に見られるものはブッダ入滅後四百年頃に固定されたものと考えられるので、かなりの変遷があったであろうと予想されます。

 西暦紀元頃からは、サンスクリットも、仏教のある部派では用いられるようになりました。十九世紀の末頃から引き続き中央アジアで発見された梵本(サンスクリット)の断片のうちにはパーリ語経典に相応するものがいくつか見出されました。漢訳やチベット訳の阿含や律なども、パーリ語からではなくサンスクリットの原典から翻訳されたものだと考えられます。

 伝承と異なる聖典の集録がいくつも存していたことは、中国僧の旅行記やその他の記録から見ても明らかです。交通のあまり便利ではない時代に、地方的に伝承が異なってくるのはやむを得ないことで、違った聖典を持つことは教団の分派の少なくとも一つの原因でした。それぞれの地方団体においても、最高の拠り所は、人ではなくて教えだったので、自派の奉じる聖典の正統さを主張することは非常に重要な問題でした。つまり、分派の事件の後には、常に結集を行って聖典の本文を再検討再確認をしました。同じ内容の聖典を奉じない者は別の派を作りました。このようにして、多くの部派が形作られ、ついには約二十の部派ができたといいます。しかし、分派の根本は上座部(保守派)と大衆部(だいしゅぶ:進歩派)との対立で、これが表面化したのはアショーカ王の治世の頃でした。*

*渡辺照宏著 「仏教のあゆみ」
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