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仏教解説

50 仏教とはなにか -経典- ②

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 さて、これまでに出てきた仏教聖典はどのようにして成立したのでしょうか。南方仏教の伝承によるブッダ入滅後間もなく五百人の僧がラージャガハの郊外に集まり、マハーカッサパが議長となり、ウパーリとアーナンダがそれぞれ「律」と「経」とを記憶によって唱え、それを一同で検討して承認しました。これを結集(けつじゅう)といいます。当時は一般の習慣として聖典を文字に写すことはあまりなかったので、結集した聖典は口伝によって暗誦され普及されました。この時できあがった本文の集成を、アショーカ王の時に王の弟マヒンダがセーロンに伝え、紀元前第一世紀にいたって、セーロンで始めて文字に写されたといいます。三蔵の第三部にあたる「論」もマヒンダによってセーロンに伝えられたといわれています。

 もしこの伝承がそのまま正しいとすれば、現存のパーリ語聖典の主要部はブッダ入滅後間もなく編集されたもので、つまり、ブッダの口から聞いた言葉を忠実に伝えたものと言わなければなりません。しかしこの点については専門学者の間では異論があります。

 まず問題になることは、パーリ語ははたしてブッダの当時に教団で用いられていた言語なのでしょうか。大体からいえばまずそれに近いといって間違いありません。ブッダ入滅後二百年頃に記されたアショーカ王の刻文はそれぞれの地方の方言で書かれていますが、明らかにパーリ語と同じ系列の言葉です。現にこれらの刻文の解読にもっとも役立ったのはパーリ語やプラークリット語の知識でした。パーリ語がアショーカ王の治世か、その前後に北インドで通用していた実際の言動と似たものであることだけは間違いありません。

 パーリ語の起原について学者の意見は必ずしも一致しません。セーロンに伝わった正統派の伝承を尊重する学者はパーリ語とマガダ語とを結びつけ、ブッダはその活動の中心地であったマガダ地方の方言を教団で採用し、それがパーリ語になったといいます。また別の学者の説によると、マガダよりも前に優勢であったコーサラ地方の方言がパーリ語の基盤であるといいます。言語学的に見て、どちらにも理由はあるが、そのどちらとも決定できないところにパーリ語の特色があると思われます。つまり、パーリ語は特定の一地方の方言というよりも、むしろガンジス河中流地方の一分化圏の共通語であったと考えた方が事実に近いらしいといわれています。当時この地方では商人・宗教家・学生などの往来があって彼らはどこで出会ってもすぐに話が通じました。それは、一種の標準語であったに違いありません。ラージャガハの人もサーヴァッティーの日とも格別苦労なしに覚えられるような言葉であったことでしょう。ブッダの教団で日常普通に用いられていた言葉はそれであったと思われます。

 ブッダは教団の人たちがサンスクリットではなく「自分の言葉」でブッダの教えを学ぶように決めたといわれています。ブッダの精神からすれば、わざわざ難しい学者の言葉を用いず、各々が自分たちの普段用いる言葉で教えを学ぶことが願わしいことであったでしょう。当時の教団の実情から考えれば、僻地(へきち)の訛りで律や経を唱えていたのでしょう。

 ブッダの入滅の後に集まった人々は各自の習い覚えた聖典を互いに比較して校訂したことでしょう。出身地が異なり、ブッダや先輩の弟子たちと接触した時や所の違う僧たちは互いに知識を交換し補足しあったことでしょう。こうしたことはブッダ在世中にも機会がある度に繰り返され、このようにして、書かれていない文献は段々と成長していったことでしょう。つまり結集はその大規模なものですが、個人と個人の交換は度々行われていたことでしょう。*

*渡辺照宏著 「仏教のあゆみ」
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