仏教解説
46 仏教とはなにか -アショーカ王- ④
様々なことを経て、アショーカ王にとっては天下泰平であり、憂いもなく、楽しい月日が流れていきました。位を継いでから十三年目(紀元前二百五十一年)、彼はカリンガ国を侵略しました。それはマガダの南方にあたり、ベンガル湾に面し、マハーナディーとゴーダーヴァリーの両河の中間に位置する一強国でした。この土地は元来あまり目立たず、しかし土地が肥沃で作物がたくさんなり、人柄は粗野な人々が住んでいました。チャンドラグプタ当時に六万の歩兵、一千の騎兵、七百の軍象の軍備を有していたといいます。したがって抵抗も激しかったらしく、これを征服した時、敵に与えた損害は捕虜十五万、戦死十万、その上これに数倍する人数が戦禍で死んだということから、よほど大がかりの激戦であったに違いありません。
この戦争の結果、アショーカ王は痛く後悔の念に駆られました。そして今後はカリンガの戦役の、たとえ百分の一、千分の一の人的損失ですむ場合にしても、再びこのような行為を繰り返すことはないであろうと述べ、はっきりと戦争放棄を宣言しました。こうして「武力による征服」を断念するとともに、これに代わるべき「法(ダルマ)による征服」に着手したのでした。
「法による征服」とは、正義と慈愛とを人々に納得させ、実行させることです。そのために彼は自ら模範を示し、刻文によって、詔勅をその広大な帝国に宣布しました。刻文は摩崖(まがい:大きな岩に刻んだもの)と石柱とがあって、石柱の多くはその頂上に獅子、牛、馬などの動物の彫刻を載せています。これらの刻文によって、アショーカ王の宗教活動や社会事業、また臣下に対する教訓の内容を知ることができます。
さて、ではアショーカ王は一体どこから仏教を学んだのでしょうか。文献には王に仏教を教えた師の名前を記録し、また、ある僧の行った奇蹟を動機として仏教に入ったともいわれています。しかし刻文から直接知り得る限りにおいて、王は自分で仏教を選び、自分でこの道を進んだように思われます。それは詔勅の性質上そうかもしれず、実際の師の名をそこに記す必要がなかったともいえます。しかし、次の点を問題としてもいいでしょう。第一に、仏教はその当時、少なくともパータリプトラ等の都会では、それほど優勢ではありませんでした。チャンドラグプタはバラモンを顧問としてマウルヤ王国を作り、その子も孫もそれを継承しました。パータリプトラに永く滞在したメガステネスも、仏教については何も知りませんでした。第二に、一般的にいえば、歴史上に見られる回心の例は、多く誰かの個人的な強い影響、または特殊の衝動によって引き起こされます。アショーカ王の回心の原因は、カリンガの戦争の悲劇でした。そのことは刻文にもあるので明らかです。しかし戦争の悲惨のうちでも、とくに彼の心を激しく打ったのは、カリンガに住んでいたバラモンや、サマナ(沙門)や、その他の宗教に属する人々や、在家の信者たちでした。彼らは行い正しく、すべての人々を愛していたのに、戦禍の犠牲となって、殺されたり、また愛する人々と別れたのでした。
それに加えてさらに多くの人々が犠牲になったのです。つまり、直接の戦闘行為以上に、非戦闘員の蒙った痛々しい戦禍がアショーカ王を後悔に導いたのでした。とくに、行い正しい宗教家や、信者達までが戦争の犠牲になることは、実に怖ろしいことでした。おそらく、アショーカ王は、その遠征の途上でそうした戦禍戦災の実例を目の当たりに見たでしょうし、生死を超越して慈愛に一身を捧げて、倒れ行く尊い宗教家の姿が、忘れ得ぬ映像として、王の心底深く刻み込まれたのではないでしょうか。いずれにしても、カリンガの戦争の悲劇は、少なくともアショーカ王にとっては空虚な観念的なものではなくして、生々とした持続的な印象として残ったに違いありません。*
*渡辺照宏著 「仏教のあゆみ」
この戦争の結果、アショーカ王は痛く後悔の念に駆られました。そして今後はカリンガの戦役の、たとえ百分の一、千分の一の人的損失ですむ場合にしても、再びこのような行為を繰り返すことはないであろうと述べ、はっきりと戦争放棄を宣言しました。こうして「武力による征服」を断念するとともに、これに代わるべき「法(ダルマ)による征服」に着手したのでした。
「法による征服」とは、正義と慈愛とを人々に納得させ、実行させることです。そのために彼は自ら模範を示し、刻文によって、詔勅をその広大な帝国に宣布しました。刻文は摩崖(まがい:大きな岩に刻んだもの)と石柱とがあって、石柱の多くはその頂上に獅子、牛、馬などの動物の彫刻を載せています。これらの刻文によって、アショーカ王の宗教活動や社会事業、また臣下に対する教訓の内容を知ることができます。
さて、ではアショーカ王は一体どこから仏教を学んだのでしょうか。文献には王に仏教を教えた師の名前を記録し、また、ある僧の行った奇蹟を動機として仏教に入ったともいわれています。しかし刻文から直接知り得る限りにおいて、王は自分で仏教を選び、自分でこの道を進んだように思われます。それは詔勅の性質上そうかもしれず、実際の師の名をそこに記す必要がなかったともいえます。しかし、次の点を問題としてもいいでしょう。第一に、仏教はその当時、少なくともパータリプトラ等の都会では、それほど優勢ではありませんでした。チャンドラグプタはバラモンを顧問としてマウルヤ王国を作り、その子も孫もそれを継承しました。パータリプトラに永く滞在したメガステネスも、仏教については何も知りませんでした。第二に、一般的にいえば、歴史上に見られる回心の例は、多く誰かの個人的な強い影響、または特殊の衝動によって引き起こされます。アショーカ王の回心の原因は、カリンガの戦争の悲劇でした。そのことは刻文にもあるので明らかです。しかし戦争の悲惨のうちでも、とくに彼の心を激しく打ったのは、カリンガに住んでいたバラモンや、サマナ(沙門)や、その他の宗教に属する人々や、在家の信者たちでした。彼らは行い正しく、すべての人々を愛していたのに、戦禍の犠牲となって、殺されたり、また愛する人々と別れたのでした。
それに加えてさらに多くの人々が犠牲になったのです。つまり、直接の戦闘行為以上に、非戦闘員の蒙った痛々しい戦禍がアショーカ王を後悔に導いたのでした。とくに、行い正しい宗教家や、信者達までが戦争の犠牲になることは、実に怖ろしいことでした。おそらく、アショーカ王は、その遠征の途上でそうした戦禍戦災の実例を目の当たりに見たでしょうし、生死を超越して慈愛に一身を捧げて、倒れ行く尊い宗教家の姿が、忘れ得ぬ映像として、王の心底深く刻み込まれたのではないでしょうか。いずれにしても、カリンガの戦争の悲劇は、少なくともアショーカ王にとっては空虚な観念的なものではなくして、生々とした持続的な印象として残ったに違いありません。*
*渡辺照宏著 「仏教のあゆみ」
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