FC2ブログ

仏教解説

44 仏教とはなにか -アショーカ王- ②

 ←43 仏教とはなにか -アショーカ王- ① →45 仏教とはなにか -アショーカ王- ③
 歴史家は、これまで出てきた説話を全て創作(作られたもの)と考え、もっと確実な史料によってアショーカ王の障害や思想を研究します。その確実な資料というのは、王がその広大な領土の各地に刻ませた法勅のことです。これは石柱に刻んだものと磨崖(まがい:自然の岩石を利用したものに刻んだもの)とあり、すでに法顕(ほっけん)や玄奘がインドを旅行した際にも注意しましたが、その後久しく忘れられ、十四世紀半頃発見された石柱を十九世紀になってからヨーロッパの学者が研究し始め、その後各地で続々発見され、数多くの学者の百年以上に及ぶ研究の結果、その内容がほぼ完全に解明されるに至っております。

 そしてこれらがアショーカ王の法勅であることが確認されました。この法勅こそは考古学・言語学の資料として、貴重であるばかりでなく、従来、仏教側の伝説的資料の中に覆い隠されていたアショーカ王の生涯と思想とを解明する上に、またとない重要な資料です。こうした考古学的な資料の裏付けがあってはじめて従来の文献の資料も活きてくるのです。

 アショーカ王の法勅は、王が仏教を宣揚(大々的に世に示すこと)することを目的として、発布したものです。従来地方的に散在していたと思われる仏教は、今や大帝国の国教の地位にまで高められました。いやそればかりではありません。マウルヤ王朝の権力と威光とにより、ブッダの教は広く国外にも広められることになりました。


 聖徳太子をアショーカ王にたとえる人もいます。両者はその国の仏教の興隆に貢献したという点では非常によく似ています。しかし聖徳太子がのような人が出なかったところで、多少は遅れたかもしれませんが、大陸からの絶えずに流れてくる波に押されて、結局は、日本に仏教は盛んになったことでしょう。しかし、アショーカ王の保護がなかったとすれば、仏教はおそらくインドの地方的宗教のみにとどまり、国外に進出する機会がなかったかもしれません。また、西洋の学者はアショーカ王をコンタンチヌス大帝と比較します。しかしこれも厳密にいうならば大分違います。コンスタンチヌスはキリスト教をはじめて公認し、その後の発達を助長させた人物に違いありませんが、キリスト教は、すでにそれ以前から、民衆の間に確固たる地盤を持っていました。大帝はいうなれば天下の趨勢(すうせい:社会などの全体の流れ)に従ったまででした。しかも彼が洗礼を受けたのは臨終間際でした。つまり、アショーカ王は在位の初期に仏教の信仰に入り、当時まだ他の諸宗教と同列であった仏教を一躍国教の地位に高め、インド最初の大帝国の隅々に教えを広めたばかりではなく、国外へも宣教者を派遣して、仏教を世界的大宗教にするための基礎を築きました。この意味でアショーカ王の存在は世界宗教史上比べることのできないことをされたのでした。

 チャンドラグプタ王によって建設されたマウルヤ王朝はその子ビンドゥサーラ(ビンビサーラ)によって継承され、その権勢と財力によってインド空前の繁栄をもたらしました。その首府パータリプトラの隆盛は当時のギリシア大使の記録や五世紀初頭の中国僧の旅行記などからも推察されますが、十九世紀末以来の数回の発掘によってその偉容が明らかにされました。その宮殿跡などもペルシャ王宮に比較される豪華さを示し、マウルヤ王朝の栄えてる時の様子をうかがい知ることができます。*

*渡辺照宏著 「仏教のあゆみ」
スポンサーサイト



もくじ  3kaku_s_L.png 日常
もくじ  3kaku_s_L.png 四国遍路
もくじ  3kaku_s_L.png 結衆
もくじ  3kaku_s_L.png 仏教
もくじ  3kaku_s_L.png 仏教解説
もくじ  3kaku_s_L.png 未分類
もくじ  3kaku_s_L.png 巡礼
【43 仏教とはなにか -アショーカ王- ①】へ  【45 仏教とはなにか -アショーカ王- ③】へ

~ Comment ~

管理者のみ表示。 | 非公開コメン卜投稿可能です。

~ Trackback ~

卜ラックバックURL


この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

  • 【43 仏教とはなにか -アショーカ王- ①】へ
  • 【45 仏教とはなにか -アショーカ王- ③】へ