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仏教

人を見る時は己を見る

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 「人の振り見て我が振り直せ」という言葉は皆様ご存知の方も多かろうと思います。さて、私たちはそれを実践しているかといえば、全員ができているかと言われれば難しいのではないでしょうか。

 そもそも、私たちは人の行為(善または悪)を見た時、すぐさま自らの心(内証)を見れるとは限りません。この「見る」というのは、「人の行いを見て善の行いに反映させる」という意味になります。ただ「見るだけ」ではあまり意味がないのです。
 また、人を見るだけではなく、自らの行いを人間社会において客観的な常識に照らし合わせて反省をするという行為も、私たち自身がやらなければならない仕事です。


 仏教の言葉の中で「慚(ざん)」と「愧(ぎ)」というものがあります。私の言葉では不十分ですので、引用させていただきます。


 (前略)それぞれ二様に理解される。第一の理解によれば、他者の徳に対する恭敬が慚(ざん)であり、自己の罪に対する畏怖(いふ)が愧(ぎ)である。第二の理解によれば、みずからを観察することによっておのれの過失を恥じるのが慚であり、他を観察することによっておのれの過失を恥じるのが愧である。(桜部建・上山春平著「存在の分析〈アビダルマ〉」)



 「慚」と「愧」という二つの言葉は、上記のように解釈されます。第一の理解という部分は、人が善行をしているを見て、それを素晴らしいと理解し、憧れ、実践していくのが慚であり、自らが行ってきた罪に対する怖れというのが愧です。第二の理解という部分は、自らを観察し、間違いを把握し、それを恥じて今後に反映させていくのが慚であり、他者を観察することによって、自らとその人とを引き比べて、不出来な自己を恥じ、改善していこうとするのが愧です。(これはあくまで私の解釈なので、曲解している部分もありますので、ご了承下さい)

 最初に書いた言葉と、慚愧という言葉の意味は第二の理解の意味と近いものがあります。それは、人の行いを見て、その善悪を判断し、反省するというものだからです。

 この慚愧という言葉は非常に勝れた言葉であるということはお分かりになられたと思います。では、この反対の事はどうであるのかを書いてみます。

 人が善い事をしているのを見てもなんとも思わず、考えず、むしろ自分の邪魔になると判断した際にはその人に対して害を働く、また自らが行っている悪事を恥じることなく、自らの悪事が世間の人に知られたとしても悪事を続けていくということです。このような人のことを世間では厚顔無恥(面の皮が厚い)と言います。

 善の反対である言葉は見てて非常に厳しいものとなります。しかし、私たちは人間です。その中には善人もいれば悪人もいます。どちらになるのかは自らの行いによって善にも悪にもなるのです。
 因果応報、または因果必然(いんがひつねん)ともいいますが、自らが善(悪)の原因を作り、その報いが自らに結果となって返ってきます。

 人が悪い事を行っているのを見て何を思うか、それとは逆に善行を見た時はどうするのか、私は前者を見たら自らを戒め、後者を見たら自らの不出来さを恥じ、善行とまではいかなくても、人様に迷惑をかけないように心掛けていこうと思っております。ただ、私は不出来なところも多々ございますので、皆様にご指導いただき、改善していく努力をしてまいりますので、どうぞよろしくお願い致します。
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