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仏教解説

41 仏教とはなにか -ブッダ入滅後の歴史- ②

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 ブッダの入滅後一世紀半程経って、北インドは世界歴史上の一大事件に遭遇しました。それはギリシアのアレキサンドロス大王のインド侵入でした。もっともこれはそれに先立つアケメネス王朝のペルシャ帝国による侵入のいわば継続事業でした。しかし、アレキサンドロス大王のインド侵入もやはり軍事的には失敗であり、政治的影響も直接には大きくありませんでした。大多数のインド人達は、この遠征から、ほとんど何の影響も受けませんでした。しかし、この遠征によってインド西北国境が西方の外国と密接な関係を持つようになり、やがてはこれが仏教の発展にも重大な関係を持つようになります。ところが、アレキサンドロス大王のインド侵入の重要な結果の一つは、インド歴史上最初の帝国建設ということでした。

 さて、話は前に戻りますが、ブッダの晩年に、マガダ国はアジャータサットゥ王の統治下ますます隆盛に向かっていました。王は西方の強大国コーサラをすでに滅ぼし、首都をラージャガハからパータリプトラに移し、ガンジス河の北岸の地域も全て掌握しました。ブッダは入滅の数ヶ月前に建造中のこの新しい町を通過したのでした。

 アジャータサットゥ王の王子、王孫が相継いで位に昇ったが、やがてマガダ国はナンダ王朝の手に帰しました。この王朝に九人の王があったと言われますが、その間の歴史はあまり明らかにされていません。とにかく王朝は変わっても、マガダ国そのものは一途に発展の道をたどりました。このナンダ王朝を倒してマウルヤ(孔雀)王朝の基を築いたのがチャンドラグプタで、彼はアレキサンドロス王侵入後のインド勢力恢復期の波に乗って大帝国を開くチャンスを握ったのでした。

 チャンドラグプタはマガダ国のナンダ王朝の血を引くと言われていますが、早くから有為な青年として諸方に活躍し、アレキサンドロス王のインド攻略中に王と謁見したこともありました。アレキサンドロス王は、インドで戦果があがらず、部下達の勧告に従ってやむを得ず撤退しました。そのあとパンジャブ地方にギリシア人の総督を残しましたが、これも実権を保持することは困難でした。西暦前三百二十三年六月アレキサンドロス王はバビロンで病気で没し、同年秋頃この訃報が伝えられると、インド人達は外国駐留軍に対して反乱を起こし、これを一掃することに成功しました。この時インドの解放軍を指揮したのが青年時代のチャンドラグプタ王でした。彼はすでにこれよりも前にナンダ王朝を滅ぼし、マガダ国王と称されていましたが、今や東はガンジス河、西はインダス河に至るまで、北インドのほとんど全土を支配することとなりました。彼の帝国の最後の仕上げは、バビロンの太守(たいしゅ)として「征服王」と称せられたセレウコスとの対決でした。この戦役についての記録は伝えられていませんが、この講和(和解)の条件としてチャンドラグプタの国土は、ヒンヅックシュ山脈にまで及ぶことになり、今日のアフガニスタンのほとんど全部の他に、バルチスタンとマクランまで割譲(かつじょう:土地などの一部を他に与えること)を受けたのでした。こうしてチャンドラグプタに始まるマウルヤ王朝は、インド史上一度もなかった大帝国を領有するようになりました。

 このように和議が成って、セレウコスは西暦前三百五年頃、メガステネスを大使として派遣し、チャンドラグプタ王の首都パータリプトラに駐在させました。彼はかなり長期にわたって、同地に滞在し、その見聞きした所をこまめに記しました。この貴重な記録の原本は現存していませんが、ギリシアやローマの歴史家の引用に残るメガステネスの記録の断片によって当時のパータリプトラを中心とするインドの状況を知ることができます。*

*渡辺照宏著 「仏教のあゆみ」
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