仏教解説

21 仏教とはなにか -初期仏教- ②

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 さとりを得たブッダは、数週間の躊躇したのち、ようやく説法を決意し、かつて苦行を共にした五人の住むベナレス(バーラナーシー)郊外のサールナートに向かいました。その途中に異教徒のウパカ(優波迦)と出会い、次のような質問をしました。
 「すばらしい顔をしておられる。すばらしい膚色(はだいろ)をしておられる。いったい、あなたは、誰の弟子であるか。いかなる思想を奉ずるものであるか」
 その問いにブッダは次のように答えられました。
「われは一切勝者、一切智者
 一切諸法のために汚されることなし
 自ら証知したれば誰を師といわん
 われには師もなく、等しきものもなし」
 その答えにおそらく呆れたのではないかと思います。その後ウパカは「これからどちらへ行かれるのか」と質問し、ブッダは次のように答えました。
「われはいま法輪を転ぜんとして
 カーシー(迦戸)の国の都におもむく
 この盲闇の世界のただ中において
 甘露の鼓(つづみ)をうたんとするのである」
 次には、あなたも私(ブッダ)によって、様々な煩悩を滅し尽くすことを得れば、私と同じく、「一切智者」となることを得るだろう、と言われたそうです。しかし、彼(ウパカ)から返ってきた答えは、「あるいは、そうかもしれないな」と皮肉を言い、頭を振りながら去っていったそうです。

その後、ガンジス河を渡り、二百余キロの道を過ぎ、サールナートのミガダーヤ(鹿野苑)において最初の説法(初転法輪)をおこない、五人は最初の仏弟子となり、ここに仏教が誕生しました。またこれを教団成立とみなす解釈も少なくありません。

 以後のブッダはつねに遍歴遊行(ゆぎょう)の旅の中で、多数の苦しむ老若男女に触れ、様々な問いや訴えに、時には比喩をまじえながら、親しく適切に答えました。彼らの大部分は信者となり、中には出家し受戒して仏弟子となりました。古い仏典に固有名詞の残る仏弟子を列挙して千百五十七人の数をあげる学者(赤沼智善)もあり、また経典には千二百五十人とほぼ一定して記していますが、仏弟子の実数はこれらより多数と想定されます。

 出家のブッダと弟子たちは、まったく無一物であり、ぼろきれを合わせて身にまとい、朝ごとに在家信者に食を乞い、得られた食事は午前に一回のみという戒律を守りました。乞う人を比丘(ビック、ビクシュ)といいます。その女性名詞は比丘尼(ビックニー、ビクシュニー)ですが、その存在は最初期には薄かったのです。

 インドは、夏のモンスーン期(雨季)が三ヶ月あまり続き、この期間は遊行が不可能となるため、また布施を受ける便宜などから、東は王舎城(ラージャガハ:当時の強国マガダの首都)の竹林(ヴェールヴァナ)、西は舎衛城(サーヴァッティー:コーサラ国の首都)の祇陀林(ジェータヴァナ)の粗末な精舎にとどまることが多く、ブッダは弟子たちとともに瞑想に集中し、また教えと戒めを確認し合いました。

 そのほかの一年の大半の乾季は、おそらくブッダはただ一人、晩年の約二十五年間は、自身のいとこに当たるとされる年少のアーナンダ(阿難)を伴って、右の二つの地を結ぶ楕円形状内の各地をめぐり歩み続け、路上または樹下で夜を過ごしつつ、一片の貯えも持たず、あらゆる欲望を遠ざけて、自らの途(みち)を進み、他と争うことなく、競うことなく、怒ることなく、無に徹しきったまま、安らかで浄らかに各地各層の人々に接しました。

 四十五年に及ぶ長い旅の末に、ブッダは王舎城から北上して最後の旅に出ます。その方向は生まれ故郷をさしていますが、途中のクシナーラ郊外の沙羅(サーラ)双樹のもとに平安な入滅を迎えます。この時の年齢は八十歳。諸資料はこの入滅を「完全なるニルヴァーナ」(パリニルヴァーナ:般涅槃)と記します。

 入滅後、付近に住むマッラ(末羅)族の信者たちによって荼毘(ジャーペーティの音写)に付され、八分にされた仏舎利(シャリーラの音写)は各地の仏塔(ストゥーパ)に手厚く葬られました。なお、この一つは、十九世紀末にブッダ実在に対する疑問や不審がヨーロッパに吹き荒れた頃、イギリス人のペッペにより発掘され、骨壺の文字が解読されて、この伝承が考古学的に実証されました。その骨壺はカルカッタの博物館に現存し、中の遺骨は仏教信奉の厚いタイ王朝に、そしてその一部が名古屋市の日泰寺(にったいじ)に贈られ祀られています。

 仏滅後、弟子たちにも信徒たちにも、ブッダの教えと戒めは生き続けました。それを改めて確認し合う集い(結集:けつじゅう)もありました。それらの教説の大要は、おそらく最初は平明(分かりやすい)な詩句や、短い散文にまとめられ、各々が口誦されました。弟子たちの集団は教団に発展するが、そのリーダーは、瞼(まぶた)の奥に焼き付き、耳朶(耳)にまだ残る形なきブッダでした。こうして、ブッダの創始した仏教は、北インド東部の中央(仏教中国)に成立をみたのでした。

 本来インド人は歴史に関する意識が乏しく、とくに古代にいたっては皆無といっても過言ではありません。ブッダの年代もインドには伝えられず、パーリ語、漢訳、それにギリシアの資料その他(いずれも多数)を総動員して、仏滅年代をめぐり、綿密精緻(めんみつせいち)な諸研究が半世紀以上も継続しています。仏滅に関して、南伝の前五百四十四年説は学界には顧みられませんが、欧米などの前四百八十三年―五年説(南伝資料)と、現在の日本の前三百八十三年説(北伝)とが両立し、後者のほうが信頼性が高いです。それによれば、おおよその数となりますが、ブッダの年代は前四百六十三年―三百八十三年となります。

 また、ブッダの生まれた場所から、ネパール系とも考えられるとはいえ、ブッダが古ネパール語を用いた痕跡はありません。このあたり一帯は当時すでにインド文化圏に属していたとみなしていいかと思います。*

*三枝充悳著 「仏教入門」
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