仏教解説

9 仏教とはなにか -ブッダについて- ①

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 私たちが、古代の人物の伝記を見ていくに当たって最も難しいことは、資料が乏しいことなのですが、仏教の開祖については、むしろこれとは反対に資料が多すぎて困るのです。現在、インドや中国やチベットや蒙古(モンゴル)や、その他いろいろの国語で伝えられている仏教文献、日本では中国人にならってこれを「大蔵経」(だいぞうきょう)または「一切経」(いっさいきょう)とよびます。そのうちで「経」(きょう)と名づけられる部分は、いずれも開祖を主人公として登場させて、語らしめているので、最も広い意味ではこれらの作品が、全て資料ということになるかも知れません。事実、中国でも、日本でも、従来はそうした想定のもとに、これらのおびただしい分量の書物を、開祖一代の布教活動の「記録」と見なしてきました。しかしそうすると、第一には、かなり矛盾した教えが同一人物によって説かれたことになりますし、第二には、私たちの常識から判断して、到底歴史的事実とは思われそうもない記事が数多く見出されます。このうち、第一の点については、従来の宗派的立場からは「教えを受ける人の能力に応じて、それぞれ別の教えが説かれたのであって矛盾ではない」と説明されてきました。そして、それぞれの宗派の立場から、多くの教えの中でどれが最も優れた教えか、ということが決められました。それを各宗派の「所依(しょえ)の経典」(よりどころとする経典)と称しました。しかしこうすることによって、仏教全体のまとまった姿はむしろ捉え難くなります。そこで現代の進歩的な学者は、これらの経典が、開祖の滅後一千年以上の長い年月にわたって、同じ仏教の教団の中でもかなり考え方の違う人たちによって、編集されたものであると考えれます。

 これらの資料の第二の著しい特徴、つまり歴史的事実よりも、架空の創作に類する記事が多く含まれていることについて、昔からの信仰の厚い人たちは、むしろその中に開祖の偉大さがあると信じていたので問題はありませんでした。しかし、批判的に物事を見ていこうとする人たちは、これらの記事を事実として信用しないばかりではなく、ある西洋の学者などは、これを見て「仏教の開祖は太陽神の信仰を象徴的に表現したものにすぎず、実際歴史の上に存在した人物ではない」とさえ言っていたそうです。しかし、十九世紀末以来の、考古学上のいくつかの発見によって、現在ではブッダの歴史的実在性について疑いをさしはさむ研究者は絶対にいません。

 それにしても、空想的な創作と確実な歴史の記録とをより分けることはなかなか困難です。なぜなら、これらの文書を作ったり編集したりした人たちにおいては、客観的事実を記録するという意志よりも、むしろ、彼らがその尊敬する開祖をどのように仰ぎ見るか、という主観的な信条告白の色彩の方が強いからです。しかしそれだからといって、必ずしもそれを誤りとして退けるわけにはいきません。それは、ソクラテスについて、クセノフォンの書いた「メモラビリア」(ソクラテスの回想録)に比べてプラトンの「対話篇」の方が誤りであるとはいえないのと同じです。一応これだけのことを念頭において、仏教の開祖の生涯について、確実と信じられている点を述べていきます。*


* 渡辺照宏著 「仏教のあゆみ」
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