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仏教解説

77 人間としてのブッダ -聖者の死- ①

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 ヴェーサーリ(毘舎離)の郊外で病気だったブッダ・ゴータマは、ようやく病から回復しました。それから間もなくの頃、彼はアーナンダ(阿難)を従えて、ヴェーサーリの町へ托鉢にでかけました。托鉢を終えて町を去るにあたって、彼は小高い丘にのぼり、感慨をこめて、この都を眺めていましたが、その時、傍らにいたアーナンダを返りみて、ふとこの聖者がもらしたことばを、お経の叙述は次のように記しています。

 「アーナンダよ、わたしがヴェーサーリを眺めるのもこれが最後になるかもしれない」

 思い起こしてみると、ブッダ・ゴータマは、その生涯の間に、幾度となくこの都に足跡を印しました。出家の直後、南のほうにあるマガダ(摩掲陀)を目指して南下した時には、この都を通って繁栄した都を見ました。正覚を成就した翌年の頃、あのジェータヴァナ(祇陀林)の精舎が竣工して、ラージャガハ(王舎城)からサーヴァッティー(舎衛城)に向かった時には、多くの弟子たちを率いるブッダとして、はじめてこの都を通りました。それ以来、ほとんど半世紀にわたる伝道の生涯の間には、何度この都を訪れ、この都に足を留めたかは、数えきれないほどでした。それもその筈で、この都は、サーヴァッティーからラージャガハにいたる交通路の要衝をなす最大の都市だったからです。しかし、この時のブッダ・ゴータマにとっては、これがこの都の見納めであるように思われました。そうであるならば、この聖者にもまた一片の感慨があったとしても、少しも不思議なことはありません。ただ、感情におぼれることは、この人の採らざるところです。やがて、気を取り直して、アーナンダにいいました。

 「アーナンダよ、では、こんどはパンダガーマ(犍荼村)だ」


 人間は感情の生き物といわれます。少しのことで私たちは心が揺れ動き、時としてはその感情があるおかげで冷静でいることができなくなってしまいます。ブッダが成道された時から入滅にいたるまで、感情によって動くことを極力避け、無常の理、縁起の法則を寄る辺として努力されてきたからこそ、どんな時に当たっても冷静でいることができたのです。

 お恥ずかしながら、私は冷静でいることが中々できない人間です。感情の昂りにより失敗したことが多々ございますし、いまもそれをしてしまいます。ただし、感情があるから人間味もあるのです。徹底することができないとしても、いまより少しは冷静になるよう、努力していこうと思います。(すぐに忘れて感情を出してしまうことが多くて困りますが・・・)
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