仏教解説

76 人間としてのブッダ -最後の旅- ⑤

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 さて、アーナンダ(阿難)がブッダ・ゴータマに向けて「師は私たちの今後について何もいわず、後継者も決めずに亡くなるはずがない」といいましたが、師は、愛する弟子の期待が誤りであることを諭(さと)して、次のように説きました。

 「しからばアーナンダよ、比丘僧伽はわたしになにを待望するというのか。わたしはすでに、内外の区別もなく、ことごとく法を説いたではないか。アーナンダよ、如来の教法には、あるものを弟子に隠すというような、教師の握りしめる秘密の奥義などはない。アーナンダよ、もしもわたしが〈わたしは比丘たちを指導している〉とか、あるいは、〈比丘たちはわたしに頼っている〉などと思っているのならば、わたしは、わが亡きのちの比丘僧伽についいぇ、何事かを語らねばならぬであろう。だが、わたしは、比丘僧伽の指導者であるとも思っていないし、また、比丘僧伽はわたしに頼っていると思っていない。だから、わたしは比丘僧伽にたいして、何事のあらためて語ることがあろうか」

 それは、アーナンダにとっては、思ってもみないことばであったに違いありません。同時にまた、それは、後代の仏教者たちにとっても、思いがけない出来事でしょう。しかし、仏教というものを突き詰めて考えていくと、結局はここに至らざるをえないのです。そのことをよく理解するための一つの鍵は、いまのブッダ・ゴータマのことばの中にあります。

 上記の増谷先生の訳では、「教師の握りしめる秘密の奥義」と訳しております。言語に忠実に訳すのであれば、「教師の掌握」となります。奥義のぎりぎりのところは、あくまでも教師だけが握りしめておいて、簡単に弟子たちには明かさない、そのような秘密の奥義は、仏教にはありません。だから「わたしは内外の区別なくことごとく法を説いた」といっているのも当然のことでしょう。

 その上は、その法に従って行(ぎょう)じ、よくその所期の目的を達することができるかどうか、その全責任は自己のうえにあるとしなければなりません。

 だからこそ、ブッダ・ゴータマは、以前にも出てきた「自帰依・法帰依」の教えを、ここでもまた、力強く説かれるのです。

 「されば、アーナンダよ、ここになんじらは、ただ自己を洲とし、自己を依拠として、他人を依拠とせず、法を洲とし、法を依拠として、他を依拠とすることなくして住するがよい。
  まことに、アーナンダよ、今においても、またわが亡きのちにおいても、自己を洲とし、自己を依拠として、他人を依拠とせず、法を洲とし、法を依拠として、他を依拠とせずして修行しようとするものこそ、アーナンダよ、かかる者こそは、わが比丘たちの中において最高処に立つものである」

 いまや、ブッダ・ゴータマにとっては、死というものに関して、はるか彼方のものとは思えませんでした。その時におよんで、彼の語ることばは、もはや空想などではなく、機に切迫している緊張のなかに打ち出されていることが感じられます。
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