仏教解説

69 人間としてのブッダ -師の晩年- ①

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 思い起こせば、このブッダ・ゴータマの時代というのは、私たちから見れば二千五百年以上も前のことです。しかし、よくよく見ていると、それはまだ最近の出来事のようにも思えなくはないでしょうか。



 風も涼やかなネーランジャラー(尼連禅河)の河のほとり、現在では人々が「ボーディ・ルッカ」(菩提樹)と呼んでいるあのピッパラ(畢鉢羅)樹のもとで、ついに大いなる解決(成道)に到達されたのは、もう四十年以上前のことでした。それなのに、いまでもじっと目をつぶると、それがまるで昨日のことのように鮮やかに目の前にうかんでくるのです。

 それから幾週間ののちには、菩提樹のもとを立ち、バーラナシー(波羅捺)の郊外にあるイシパタナ・ミガダーヤ(仙人住処・鹿野苑)に向かい、そこであの五人の比丘たちに出会うことができました。自分の得たものをはじめて人に語ったのは、あの時のことでしたが、あのコーンダンニャ(憍陳如)がまず解ってくれた時には本当に嬉しかったのです。彼が「わかった、わかった」といって、大きな声をあげたあの声が、いまでも耳の中に残っているような気がします。

 それから、またマガダ(摩掲陀)の国に帰ってきて、ヴェールヴァナ(竹林)の精舎にいた頃には、あのサーリプッタ(舎利弗)とモッガラーナ(目犍連)の二人が、サンジャヤ(刪闍耶)のもとにいた二百五十人の沙門たちをひきつれてきました。あそこで、あの優秀な二人を得たことは、新しい僧伽にとって幸いなことであったし、また自分にとっても大変嬉しいことでした。それなのに、あの二人が、いまになってこの老いさらばえた自分をおいて先に逝ったことは、こんなに寂しいことはありません。

 ブッダ・ゴータマの晩年の思いには、いつもなにか少し寂しい感じがあったとしても、それは少しも不思議ではありませんでした。なぜかというと、師の晩年には、いくつか悲しむべき出来事が起こったからです。その一つは、以前に出てきたデーヴァダッタ(提婆達多)の事件です。自分と同じサキャ(釈迦)族の出身のすぐれた弟子であった彼が、僧伽の分裂を企てるなどは、悲しんでも悲しみきれないことでした。それが大事に至らずに済んだのはほかでもない、サーリプッタとモッガラーナの二人がいたからです。しかし、それから間もないころ、その二人は相次いでこの師に先立って逝ってしまいました。それがどれほどブッダ・ゴータマの心を悲しませたかは、想像しがたいほどのものでした。

 もちろん、悲しみに沈んで身をやぶり、自己を見失うようなことは、仏教者としてあってはいけません。そのことをもっともよく知っていたのは、ブッダ・ゴータマ自身に他なりませんでした。それについて、「一夜賢者(いちやけんじゃ)の偈(げ)」という名の韻文がございます。おそらく師の晩年に近いころのことと想像されますが、ブッダ・ゴータマはときどき、その偈をとりあげて、比丘たちのために解説をしました。それはその頃巷でおこなわれていたものを、この師がとりあげて説いたものと思われますが、その全文は次の通りです。

 「過ぎ去れるを追うことなかれ
  未(いま)だ来らざるを念うことなかれ
  過去、そはすでに捨てられたり
  未来、そはいまだ到らざるなり

  されば、ただ現在するところのものを
  そのところにおいてよく観察すべし
  揺(ゆら)ぐことなく、動ずることなく
  そを見きわめ、そを実践すべし

  ただ今日まさに作すべきことを熱心になせ
  たれか明日死のあることを知らんや
  まことにかの死魔の大軍と
  遇わずということ、あることなし

  かくのごとくよく見きわめたるものは
  心をこめ、昼夜おこたることなく実践せん
  かくのごときを一夜賢者という
  また、心しずまれるものとはいうなり」

 そこには、ブッダ・ゴータマの教えと同じく通じるものが、その全文に見えます。それをこの師がとりあげたからとしても、少しも不思議ではありません。とはいっても、師の晩年の思いを見ていけば、この「一夜賢者の偈」が、そのまま見過ごすことができない部分もあります。「過ぎ去るを追うことなかれ」がそれです。そのことをもっともよく知っているのは、ブッダ・ゴータマその人でした。

 しかし、その人の胸の底には、過去の寂しさの思いが残っているのです。なによりも。いまはもうサーリプッタたちが、この世にいないことが、思い出されて仕方がなかったのです。


 確かにブッダ・ゴータマは、かの菩提樹下にて成道されましたが、それは人間的な感情がなくなったわけではありません。ありのままの法則(縁起の理法)に気づかれたのであって、人間ではなくなったというわけでは当然ないのです。つまり、親しい友人との死別の際には、「すべては流れるのである」と理解しながらも寂しいのです。
 ブッダは完璧な存在で、人間としての感情などないと思っている方もいらっしゃるでしょうが、実はそうではなく、そこのところは私たちとあまり変わらない部分もあります。だからこそ、師の教えをまとめ、それを現在でも読誦しているのです。ブッダのこともとうとう最後のほうになってまいりました。もうしばしお付き合いの程、よろしくお願い致します。
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