仏教解説

65 人間としてのブッダ -デーヴァダッタ- ②

 ←64 人間としてのブッダ -デーヴァダッタ- ① →66 人間としてのブッダ -デーヴァダッタ- ③
 デーヴァッタ(提婆達多)という人物については、これまでに言及したことがあります。

 それは、この時からおよそ二十年近くも前のこと、ブッダ・ゴータマが何度目にか故郷を訪れた時、その盛名と徳望に憧れて、勇躍してこの師のもとに投じた七人の秀でたサキャ(釈迦)族の青年たちがいました。お経のことばは、その名をバッディヤ(跋提)、アヌルッダ(阿那律)、アーナンダ(阿難)、バグ(婆咎)、キンビラ(金毘羅)、デーヴァダッタ(提婆達多)、ウパーリ(優波離)とならべ記しています。その中には、のちの仏教者たちがいうには、「仏十大弟子」すなわち、ブッダ・ゴータマの数多い弟子たちの中でももっとも勝(すぐ)れた十人の大弟子の中にその名を連ねている人が三人います。アヌルッダ、アーナンダ、ウパーリがそれにあたります。そして、デーヴァダッタもまた、その秀抜ということにおいて、十分彼らに比肩するものをもった青年でした。あるお経(律蔵、小品、七)の記すところによれば、かのサーリプッタ(舎利弗)さえも、かつてデーヴァダッタを讃歓して、彼に「大神通あり、大威力あり」とたたえたことがあったといいます。

 それほどのデーヴァダッタが、いったいどうして「ユダ」の役割を演ずるものとなったのでしょうか。その消息を、一つのお経(相応部経典、六、一二、「提婆達多」。漢訳同本、雑阿含経。三八、三、「提婆」)は、次のような偈(韻文)をもって、比喩的に語っています。

 「芭蕉と竹と葦とは
  実を生じて損なわれる
  驢馬(ろば)は子を孕みて死ぬという
  悪人はその名声によって損なわれる」

 わたしどももまた、この国において、ときたま、竹が実を結んで枯死する風景を見ることがあります。そして、いまデーヴァダッタもまた、その名声ようやく高く、利養のようやく自分に集中するにいたって、彼の心はそれによって乱れ、彼の思いはそれによって歪み、ついに「われはこの僧伽を領せん」との欲望を抱いてしまったのです。

 そのころ、ブッダ・ゴータマは、しばらくマガダ(摩掲陀)の国を去って、西の方角にあるコーサンビー(憍賞弥)に向かって伝道の旅を続けていました。その間に、デーヴァダッタはマガダの国の王ビンビサーラ(頻婆娑羅)の王子アジャータサッツ(阿闍世)の厚い帰依と供養を受けるものとなりました。お経のことばは、その供養の様子を次のように記しています。

 「デーヴァダッタのために、アジャータサッツ王子は、朝に夕に五百の乗車をひきいていたり、五百の釜に飲食を煮て供した」

 コーサンビーへの旅を終えて、再びマガダの国に帰り、ラージャガハ(王舎城)の郊外ヴェールヴァナ(竹林)の精舎に入ったブッダ・ゴータマは、多くの比丘たちからそのことを聞かされました。その時、この師がいったことは、名声・利養がいかにおそるべきものであるかということであり、それによって、デーヴァダッタの心中にわきでているものが、「善法の損滅」でなければよいがということでした。しかし、事態は、この師が心配した通りになってしまったのです。

 それからしばらくしてのことでした。ある日、ブッダ・ゴータマは、多くの会衆にとりまかれて法を説いていました。その会衆には、たくさんの在家の人々がいて、その中には、その国の王や大臣もいました。そして、その説法が終わると、デーヴァダッタは、すっと座を立って、師の前に進んでゆき、合掌を捧げたのち、師の前に申していいました。

 「世尊よ、いまや世尊は高齢にましまし、老衰のさまもめだって見えてまいりました。世尊よ、いまは安穏の生活をたのしまれることを専らになされ、比丘衆をわたしに付嘱(ふぞく)したまえ。わたしがこの僧伽を統理いたしましょう」

 これはいうまでもなく、ブッダ・ゴータマにたいする隠退の勧告であり、なおかつ僧伽の指導権の譲渡を強請するものでした。そこにいた一同はざわめきだしました。その中で、この師は、いつもの静かな態度で答えました。

 「デーヴァダッタよ、それはいけない。なんじがこの僧伽を統理することは願わしいことではない」

 しかし、デーヴァダッタは、その勧告と強請をやめませんでした。彼は、二たび、三たび、おなじ要求を繰り返しました。それでも、ブッダ・ゴータマは、少々声を激しくしていいました。

 「デーヴァダッタよ、わたしは、サーリプッタ(舎利弗)やモッガラーナ(目犍連)にだって、この比丘衆を付嘱することはしない。いわんや、なんじのごとく垂涎(すいせん)をもってのぞむ者においておやである」

 それは厳しいことばです。「垂涎をもってのぞむ」というのは、よだれ(涎)を流して欲しがるというほどの意味です。それに、いまのブッダ・ゴータマのことばは、サーリプッタやモッガラーナを比較して、デーヴァダッタはその二人にはるかに及んでいないとしています。それを、たくさんの人がいる中でいわれては、もう何もいうことができません。彼は沈黙し、憤然としてその場より去っていきました。デーヴァダッタがこの師にたいして怨みをいだくにいたったのは、この時からとなったのです。
スポンサーサイト



もくじ  3kaku_s_L.png 日常
もくじ  3kaku_s_L.png 四国遍路
もくじ  3kaku_s_L.png 結衆
もくじ  3kaku_s_L.png 仏教
もくじ  3kaku_s_L.png 仏教解説
もくじ  3kaku_s_L.png 未分類
もくじ  3kaku_s_L.png 巡礼
【64 人間としてのブッダ -デーヴァダッタ- ①】へ  【66 人間としてのブッダ -デーヴァダッタ- ③】へ

~ Comment ~

管理者のみ表示。 | 非公開コメン卜投稿可能です。

~ Trackback ~

卜ラックバックURL


この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

  • 【64 人間としてのブッダ -デーヴァダッタ- ①】へ
  • 【66 人間としてのブッダ -デーヴァダッタ- ③】へ