仏教解説

64 人間としてのブッダ -デーヴァダッタ- ①

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 一つの挿話から書いていきましょう。

 ある朝のこと、ブッダ・ゴータマの随侍の比丘アーナンダ(阿難)は、衣をととのえ、鉢をもって、まだ朝もやにとざされたラージャガハ(王舎城)の街に入りました。托鉢のためでした。そのアーナンダの托鉢する姿をじっと見つめながら、後ろからついてくる人物がいました。托鉢中には話しかけてはならなかったからです。やがて、アーナンダが托鉢をおえると、その人物は、「アーナンダよ」と声をかけて彼のまえに立ちました。それは、デーヴァダッタ(提婆達多)でした。彼はいいました。

 「友よ、今日より以後、わたしどもは、世尊とは別に、布薩(ふさつ)の行事をおこなうこととなった」

 〈布薩〉とは、〈ウポーサタ〉の音写です。月に二度、新月と満月の夜におこなわれる僧伽(さんが)の集会をいうことばであって、その行事を別にするということは、つまり、袂をわかって教団を別立するという意味です。デーヴァダッタがそのことをアーナンダに語ったのは、教団分立の宣言だったのでしょうか。それともアーナンダを誘(いざな)おうとしていたのでしょうか。デーヴァダッタの心情は知ることができませんが、いずれにしても、それはアーナンダにとって、驚天動地の驚きであったことでしょう。彼は真青(まっさお)になって、物をいうこともできませんでした。

 アーナンダは、どこをどう歩いて帰ってきたかも覚えていませんでしたが、ともかく、城外のヴェールヴァナ(竹林)の精舎に帰ってきました。帰るとすぐに、彼はブッダ・ゴータマの前にでて、今日の出来事の一部始終を申し上げました。顔をあげてみると、老いたる師の面にも、かすかに苦渋のおもむきがうかがわれました。しかし、そのことばは、いつものように物静かでした。そのことばを、お経の叙述は、例によって、偈(韻文)のかたちをもって、次のように記されています。

 「善人に善はなしやすい
  悪人に善はなしがたい
  悪人に悪はなしやすい
  聖者に悪はなしがたい」

 しかし、この師の思想の中には、生まれながらの善人というものはなく、また、生まれながらの悪人というものもあり得ません。人はただ、その営むところの業(ごう)によって、善き人ともなり、また悪しき人ともなります。ただ、恐ろしいことには、ふとしたことから、悪しき思いに捕えられ、悪しき行為をかさねるうちに、人はやがて、善はなしがたく、悪はなしやすい人間となってしまうのです。ここに、ブッダ・ゴータマが語っているのは、そのことでした。そして、かのデーヴァダッタをそのような悪人として語らなければならないということは、この老いたる師にとっては、かぎりなく淋しいことであり、悲しいことでした。


 これより先はお経の叙述、特にデーヴァダッタの物語となってまいりますが、このデーヴァダッタに関しては、仏教でよくいわれているところの「極悪人」であったかどうかは私も疑問に思っております。これに関しては、後ほど別の先生の考察を書いてまいりますので、まずはいままで通りお経と増谷先生に則って書いてまいります。少々これまでのお経とは違い、違和感を覚える方もいらっしゃると思いますが、どうぞお付き合いくださいませ。
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