仏教解説

61 人間としてのブッダ -盗賊への教化- ①

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 ブッダ・ゴータマの説法や伝道の生涯は、これまでにも出てきたように、四十五年間の長きにわたりました。その長い伝道活動の中にも、ドラマティックな物語はあまり多くありません。それもそのはずで、この師はいつも静かな平和をもたらす人として振舞い、激情に身を任せて行動するということは、本当に少ない人だったからです。それにもかかわらず、私たちはなお、いくつかの、この師をめぐる劇的な物語があります。その一つには、私たちの国では、指鬘外道の名でもってよく知られている一人の盗賊を教化する物語があって、今日でもなお、それを読む人々のこころを揺り動かしてやみません。一つの経典(中部経典、八六、鴦掘魔経。漢訳同本、雑阿含経、三一、一六、「賊」)は、その物語を次のように記しています。


 それは、ブッダ・ゴータマが、サーヴァッティー(舎衛城)の郊外の、かのジェータヴァナ(祇陀林)の精舎に止まり住しているときのことでした。そのころ、その国コーサラ(拘薩羅)にはアングリマーラ(鴦堀魔)と呼ばれる盗賊が横行して、人々を戦慄せしめていました。人々の伝聞するところによると、その賊は、残忍な性格で、人々を殺すと、その指を切り、それを糸でつないで首飾りとしていたといいます。それがアングリマーラが指鬘外道という名前の出てきたいわれであったといいます。

 そして、ある朝のこと、ブッダ・ゴータマは、衣鉢を整えてサーヴァッティー(舎衛城)に入り、托鉢を終えると、そのアングリマーラが住むという方向に向かって歩いていきました。サーヴァッティーの都門を出ると、城外に市場があります。野菜や魚などがそこで売られています。もっと進んでいくと、広々とした耕地や牧場があります。そこでは働く農夫や牛飼いなどは、ブッダ・ゴータマの姿を見ると、驚いて呼びかけていいました。

 「ご出家よ、その道はゆかれぬがよろしい。この向こうには、アングリマーラと呼ばれるおそろしい盗賊が住んでおります。ひどいやつで、人を殺すと、その指をとり、糸につないで首にかけているということです。その道だけは、ご出家よ、いってはなりませんぞ」

 しかし、ブッダ・ゴータマは、それが聞こえたのか聞こえてないのか、相変わらず黙然として、ゆっくりとその道を進んでいきました。


 お経の叙述は、そこで舞台を一転して、アングリマーラ(鴦堀魔)のがわを描きはじめます。


 彼は、はるか彼方に、一人の沙門がやってくる姿を見つけました。しかし彼は、しきりに首をひねって考えていました。どうもおかしいというのです。その頃では、もう彼のことが広く知れわたっていたので、その道をたった一人でやってくるなどということは全くありません。商用や何かで、どうしてもその道をゆかねばならないものは、十人も二十人もが、武器を携え、団体を組んで通ろうとします。それでも、やっぱり、アングリマーラの餌食になったものも少なくありません。

 「それなのに、あの沙門は、たったひとりで供(とも)もなく、悠然としてやってくる」

 それが彼には、不思議に思えて仕方なかったのです。しかし、ここのところしばらく獲物がありませんでしたので、彼は、やっぱり、「あの沙門のいのちを貰おうか」と決心します。そこで彼は、剣と楯(たて)、弓と矢をとって、沙門をやり過ごすと、その後ろから尾行しました。

 その辺りから、お経の描写は、少し不思議な様子をまじえてきます。悠然と歩いている沙門の後をつけるアングリマーラが、どうしても近づくことができないのです。速力をはやめ、全力をあげて追ったのですが、二人の距離はいつまでたっても同じままです。その時、アングリマーラが心の中え考えたことを、お経のことばはこんな風に記しています。

 「まったく不思議だ。こんなことってないぞ。これまでわたしは、馳(か)ける馬をおうて捉えたこともある。また、はしる車においついたこともある。それなのに、いまわたしは、悠然とあるくあの沙門に、どうしても追いつくことができない、こりゃどうしたことだ」
 そこで彼は、とうとう立ち止まって、呼びかけていいました。
 「とまれ、沙門。沙門よ、とまれ」
 すると、かの沙門からも、間髪をいれずに答えました。
 「わたしはとまっている。アングリマーラよ、なんじもとまるがよい」

 ここで少し注釈を加えなければなりません。それは「とまる」ということばのことであるが、私たちの日本語では、「とまる」と「やめる」との別のことばなのですが、彼らのことばでは同じです。たとえば英語で「ストップ」(stop)といえば、「とまる」ことであるとともに、「やめる」という意味もあり、それと同じなのです。そして、いまアングリマーラは、ブッダ・ゴータマに歩行の停止を要求したのに対して、ブッダは彼に悪事の停止を忠告したのです。

 しかし、アングリマーラは、それに気がつかなかったので、また折り返していいました。そこが大事なところなので、お経のことばは、それを韻文でもって綴っています。

 「沙門よ、なんじは歩きながら、われはとまれりという
  われはとまれるに、なんじはなおわれにとまれという
  沙門よ、われはいまその意味をとわんと欲す
  いかなれば、なんじはとまり、われはとまらずとなすや」

 それに対するブッダ・ゴータマのことばもまた、韻文をもって次のように綴られています。

 「アングリマーラよ、われはわれはまことにとどまりてあるなり
  生きとし生ける者のうえに害心をはすることなし
  しかるに、なんじはいまだ生ける者にたいして自制することなし
  されば、われはとどまれり、なんじはいまだとどまらずという」

 それが、彼の決定的瞬間でした。彼はただちに、凶器を深い谷間に投げ捨て、ひざまずいてブッダ・ゴータマの足を拝して、その場において出家の許しを乞うたのです。



 「有り難い」ということばの反対は「当たり前」です。それは、人間社会一般での常識でやってはいけないこと(例えば盗みや暴力など)だったとしても、普段からそれをし続けている人は、それが当たり前になってしまい、悪事と認識できなくなってしまうのです。その場合、なかなか正しいことの概念を伝えようとしても耳を傾けようとはしません。つまりは直すことが非常に困難になってしまうということです。
 自分は違うと思ったとしても、まったく悪いことをしていない人間は存在しません。だからこそ、自分の心を見つめていき、悪事をなくし、善行を自ら進んで行っていけるようになるよう、努力してゆかなければならないのです。私も自分の心を見つめてゆき、悪と判断される部分は直している最中ですが、中々に難しいです。いずれは、常に善の方向へと歩みを自然と進めていける人間になりたいものです。
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