仏教解説

57 人間としてのブッダ -故郷の人々- ①

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 「予言者郷里に容れられず」という諺があります。これは、いかに優れた人物であったとしても、身近な人には理解され難いという意味です。これはもっともなことで、なぜならば、予言者や教祖と称せられる人は、世の人々がいまだに考え到ることのないところを考え、いまだ語られたことのないことを語る人に他なりません。伝統と常識があればあるほど、その人々にはことばが容易に受け入れられないのです。また、それらのことばを語る人が、かつて同じ共同体の中で生活をともにした人物だった場合、人々の心はさらに固く閉ざされるのです。理由は、彼らは彼のいまだ開花していなかった時代のことを、あまりにも知りすぎているからです。福音書によれば、イエス・キリストがかの福音を説き始めた時、親族の者たちは「イエスを狂えり」と取り押さえようとしたというのが、それもまた、もっともであるといえるでしょう。では、いったいブッダ・ゴータマの場合にはどうだったでしょうか。ブッダ・ゴータマがあのように優れた聖者としてある所以は、とうてい今生(こんじょう)のみの修行によって得たものとは考えられないとする古代の仏教者たちが、その敬虔(けいけん)な心もちから生み出した空想の物語が「ジャータカ」(ブッダの前世を語る物語)と称されるものです。その「ジャータカ」の中に、「布施太子の物語」として広く知られている一篇がありますが、その語りだしは、次のように記されています。


 それは、ブッダ・ゴータマが伝道をはじめてから第二年目のことでした。彼は多くの弟子の比丘たちをひきいて、出家以来はじめて故郷のカピラヴァッツ(迦毘羅衛)を訪れました。数えてみると、故郷を離れてから、もう八年の月日が流れていました。サキャ(釈迦)族の人々はもうブッダ・ゴータマの噂を耳にしていたので、わが部族から出たうわさの聖者を見ようとして集まり、彼を郊外のニグローダ(尼拘律―榕樹)の園に出迎えました。だが、その中には、「彼はわれよりも年下である」といって、頭をさげようともしないものもあったそうです。


 そんな記述を呼んでいると、悟りを開いてからはじめて故郷を訪れるこの聖者と、それを迎えるサキャ族の人々の気持ちがよくわかるような気がします。この小さな部族から出た青年が、いまや噂の聖者となっているということは、やはり同族のものとしては嬉しいでしょう。その気持ちを素直にあらわしている人もいました。しかし、その反面には、「あの青二才が」と思っている人があったとしても、少しも不思議ではありません。彼らは、ブッダの少年時代も知っているし、出家するときには、父母を泣かせ、妻子を捨てていったことことも、ちゃんと知っているのです。このお経のことばの「彼はわれよりも年下である」と、どこかぎこちない表現の中にも、その気持ちが受け取れるのです。

 そのような人々の様々な気持ちは、ブッダ・ゴータマその人にも、よく解ったに違いありません。すると、経典のことばによると、その時、大雲がにわかに湧きでて、やがて勢いよく雨が降ってきました。人々はそれを不思議だと語りだし、瑞祥(めでたいことが起こる前兆)だろうかと囁きあいました。そこでブッダ・ゴータマは、このような瑞雨は、かつて過去世においても、私のために降ったことがあるのだといって、そこから布施太子の物語がはじまるというのが、この「ジャータカ」物語の構成です。

 その本文の前世物語のほうはともかくとして、その前文の、はじめて故郷を訪問したという部分は、真実性に富んでいるように思われます。もしそうだとすれば、この聖者にとっても、「予言者は故郷に容れられず」ということばは、まるで無関係であったとも思われません。



 小さい時にしか会っておらず、大きくなったその子に会ったら、私たちは「変わったね」とか「大きくなったね」といいます。それは、小さい時のイメージしかなく、その子が大きくなるまでの数年間穴が空いた状態になってしまっているからそれも仕方ないことでしょう。例えば、小さい時にいたずらをよく男の子だったとして、その子が大きくなった時、好青年になったということもよくあります。確かに彼は、小さい時から現在まで、さまざまなことを乗り越えて大きくなったのですから、そこまで「変わった」とは思わないでしょうが、小さい時のイメージしかない人からすると、「昔はいたずら大好きな子だった」というのが払拭できずに、小さいころの彼をどうしても見てしまうのです。だから、その彼が大成してたとしても、中々現在の彼を率直に見るということは非常に難しいのです。


 例えば、いまの私は本をよく読んだりしますが、以前の私は本など全くといってよいほど読みませんでした。(最近になってはじめて、もっと読んでおけばよかったと思います)だから、以前の私しか知らない人がいまの私を見ると「全く本なんて読まなかったのに」といわれてしまいます。(よっぽど読まなかったんでしょう)それだけではなく、過去に私がおこなった悪いことを知っていればいるほど、いまの私が真剣な思いで言ったことばだとしても、過去のことがあるおかげで中々信用はしてくれません。では、どうすれば信用してくれるのか、それは、これからの私が真剣に努力をし続けるということです。ことばだけではどうしても足りないので、行動でもって帳尻を合わせないといけません。困ったものですが、それも自分がしてきた行いなので自分で受け取らなければなりません。いずれは、心から出ることばと雰囲気でもって、目の前の人が信じれるような人間となれるよう努力してゆきたいものです。
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