仏教解説

56 人間としてのブッダ -外道との対話- ③

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 たくさんの経典の記されているものを見ると、ブッダ・ゴータマと外道の思想家たちの間は、もっと友誼(友情)に満ちた、静かな思想的対話がおこなわれるのが常だったようです。外道を白眼視するというのは、後代の仏教者たちの生んだ偏見であって、ブッダ・ゴータマとその弟子たちの間には、そのような偏見の影さえ見ることはできません。たとえばあるお経(雑阿含経、三四、二四、「見」。中部経典、七二、婆蹉衢多火喩経)には、まず次のような句で書きだされています。


 「かようにわたしは聞いた。ある時、世尊は、サーヴァッティー(舎衛城)のジェータ(祇陀)林なるアナータピンディカ(給孤独)の精舎にあった。その時、ヴァッチャゴッタ(婆蹉衢多)なる外道の沙門が世尊を訪ねてきた。彼は挨拶をし、友誼礼譲のことばを交して、世尊と相向かって坐した」


 これが、外道の思想家たちがこの師を訪れる場合に行う常の作法であって、以前の婆羅門たちが、よくブッダ・ゴータマのところに怒鳴りこんできたのと正反対です。


 話を戻します。挨拶がすむと、ヴァッチャゴッタはブッダに質問をはじめました。その論題もまた、以前に出てきたマールンクヤープッタ(摩羅迦子)という哲学青年が興味をいただいていたようなものでした。「この世界は限りがあるか、それとも限りがないか」。あるいは、「霊魂と肉体はひとつのものであるか、それともそれぞれ別なのか」。また、「人は死してのちなお存するものか、それとも存せざるものか」。ヴァッチャゴッタは、次々にそのような論題をあげて問うけれども、ブッダ・ゴータマの答えは、一向に要領をえません。その理由は、どれだけ論議したとしても答えが一向に出ないものであり、無益なものだからだというのは、これまで読んでいただいている方承知されているでしょう。


 彼はとうとう業を煮やして、では、あなたはなにを説こうとするのかと問いました。ブッダ・ゴータマは、わたしは生死解脱の道を語るのだと答えます。それではと、ヴァッチャゴッタは、そのことについて問いはじめますが、その問いがまた、まるで見当違いのものでした。そのやりとりは次のようなものです。


 「世尊よ、では、世尊のおしえによれば、解脱したものは、いったい、どこへ往(い)って生まれるのですか」
 「ヴァッジャよ、どこかに往って生まれるなどというものではない」
 「では世尊よ、解脱しても、どこにも往(ゆ)かないというのですか
 「ヴァッジャよ、それは往くとか往かないとかいうこととは、まったく関係のないことである」


 古い宗教的観念の中には、人は死してのち、どこかにいって生まれるという考え方があります。いや、古い観念とばかりはいえず、今日にいたってもなお、そのような考え方はいきています。そして、ヴァッチャゴッタの頭のなかには、宗教の語る理想の境地として、そのような考え方しかなかったので、ブッダ・ゴータマの語る解脱という考え方が、どうしても捉えがたいのです。彼はもう健闘もつかなくなって、質問を重ねることもできなくなってしまいました。

 そこで今度は、ブッダ・ゴータマの方から質問を設けて、彼を誘導することになりました。


 「ヴァッジャよ、では、わたしの方から質問するから、思うままに答えてみるがよろしい。ヴァッジャよ、いま、もし、なんじのまえに火が燃えているとしたら、なんじはそれをどういうだろうか」
 「世尊よ、それは火が燃えているというだけのことである」
 「その通りである。ではヴァッジャよ、その火はなぜ燃えているかと問うたら、どう答えるか」
 「世尊よ、それは薪(まき)があるから燃えているのでしょう」
 「その通りである。ところで、やがてその火が消えてしまったら」
 「火が消えたというだけのこと」
 「ではヴァッジャよ、その火は消えて、どこへ往(い)ってしまったのだろうか」
 「世尊よ、それは問い方がおかしいでしょう。その火は薪があったから燃えていたのであり、それが燃えつきたから消えたというだけのことであって、消えた火は、どこにいったというこうことでもありません」


 対話がここまできた頃には、きっとブッダ・ゴータマはその面に笑みを浮かべていたに違いありません。なぜならば、ヴァッチャゴッタは「それは問い方がおかしい」といいましたが、先に見当違いの問い方をしたのは、まぎれもなくヴァッチャゴッタ自身だったからです。彼もやっとそのことに気がついたみたいでした。そして、気がついてみると、ブッダ・ゴータマの語ることは、非常に明快にして単純なことだったのです。


 解脱というのは、自由もしくは解放の意味をもっている仏教の術語です。生死の不安から自由になり、あるいは煩悩の束縛から解放されるのです。それ以上のなにものでもなく、それ以外のなにものでもありません。それを何処へいって生まれるのかなどと質問したのは、ヴァッチャゴッタが古い宗教的観念に捕らえられていたからでした。

 では、人はいかにして生死の不安から自由になり、煩悩の束縛から解放されるのでしょう。それには、ブッダ・ゴータマはまず、不安や煩悩はどこからくるのかという所以を語ります。それは、人は愚かにして、自分の中の激情の火を自分自身が燃やしてしまっているからです。では、その激情のほのおの消えるとき、そこには、もはや煩悩も不安もない筈です。このお経の後段におけるブッダの不思議な設問は、いつの間にか、そのことを語りあかしていたのでした。



 仏教は禁欲主義であるという考えをしている人も少なくありませんが、それは正しいとはいえません。それでは快楽主義かといえば、それも違います。両極端を離れ、その中間(中道)をとるのです。そのためには、欲を少なく(少欲)し、足りていることを知りなさい(知足)と教えるのです。そうすれば、おのずから煩悩はなくなっていきます。何事もほどほどにしなさいというのがそれです。私たちは、さもすれば極端を思惟したり、また枝葉末節を根本だと取り違えたり、また先入観などに捉われて物事を正しく見ていないということが多々あります。そうではなく、物事の真実、本質を見極めるということをしなければ、正しいこととはなりません。正しいことを間違うことなく見れるよう努力していき、後悔や不安なき人生を送れるよう努力してゆきたいものです。
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