仏教解説

46 人間としてのブッダ -無我- ②

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 そのように、我(が)の否定のことばのみを連ねていると、ブッダ・ゴータマという人は、我を否定した人ではないかと思われそうになるのですが、しかし、決してそうではありません。ブッダが否定したのは、我(が)に関する固定的な考え方だけです。それらを否定して、ブッダは、もっと流動的な我の真相を明らかにしようとしただけです。そして、その真相の上に立って、素晴らしい自己の人間形成のために、もてる努力をそれに集中しなさいと説いたのが、ブッダ・ゴータマの教説のすべてでした。よく知られている「ダンマパダ」(法句経)の一句は、次のように述べられています。

 「自己のよりどころは自己のみである
  ほかにいかなるよりどころがあろうぞ
  自己のよく調御せられたるとき
  人は得がたいよりどころを得るのである」(一六〇偈)

 ちなみに、縁起、無常、無我の三つのことばは、ブッダ・ゴータマの思想の基本をなす原理を表現したものであるので、それだけに、分析的であり、また抽象的であって、少々哲学的な部分がるので、理解するのは難しいです。上記の説明をしなければならなかったのは、このような理由があったからです。ブッダもまた、それらの原理については、主として、出家の比丘たちに対して語り、一般の在家者にたいしては、もっと具体的に生活に即して語り、原理については煩瑣となるために説くことは稀であったそうです。しかし、それらの具体的な生活に即しての教法の中にも、これらの基本的な原理は、いつもいきいきとして生きているのです。


 日本には「いろは歌」というものがございます。これは、「諸行無常(色はにほへど 散りぬるを) 是生滅法(我が世たれぞ 常ならむ) 生滅滅已(有為の奥山  今日越えて) 寂滅為楽(浅き夢見じ  酔ひもせず)」という涅槃経に説かれている教えを歌にされたといわれています。この「諸行無常」ということばの無常は、今まで書いてきた無常ということばにほかなりません。常なるものはこの世に一つとして存在していません。それはその通りで、たとえば昨日の私と今日の私は違いますし、今日の私と明日の私も違います。日々移り変わっていき、常に変化を続けているからです。別のことばでいえば「昨日を背負い、明日を孕んでいる今日」なのです。たとえば花も一緒で、最初種から芽が出て花が咲きます。しかし、ずっと咲いているわけではなく、最終的にはその花は枯れてしまいますが、現在(いま)を真剣に生きているからこそ、その花は美しいのです。

 私たちは一日一日と年老いていき、最終的には死んでしまいます。その死の瞬間まで「今日が一大事」ということばの通り、今日のこの一日を大事にする努力を続けていき、最後にはよかったといえるようにしたいものです。
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