仏教解説

48 人間としてのブッダ -遊行- ①

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 これまでにも多々でてきている祇園精舎、正しくいえば「ジェータヴァナ(祇陀林)のアナータピンディカ(給孤独)長者によっていとなまれた精舎」は、サーヴァッティー(舎衛城)の南方、一里たらずの郊外にあります。そこは、ブッダ・ゴータマがたまに留まっていた場所で、よくいろいろの人がこの師をおとずれてきました。
 ある時には、そのあたりの村人でしょうか、どこか険しい顔つきをした、しかし素朴な風体をした男がたずねてきました。聞いてみると、彼は、このあたりのガーマの長ですが、どうも村では非常に評判が悪いということでした。そのことに苦しんでいたので、彼はこの師の教えをこうために訪ねてきたということでした。この男のことばを、お経のことばでは、次のように記しとどめています。

 「大徳よ、人々はわたしを〈乱暴だ、乱暴だ〉と申します。大徳よ、いったい、ある者が〈乱暴だ〉とよばれるのは、どんな理由により、いかなる条件によってでありましょうか。大徳よ、それに反して世の中には、〈柔和だ、柔和だ〉といわれる者もあります。いったい、ある人が〈柔和だ〉といわれるには、どんな理由があり、どんな条件があるのでありましょうか」

 ここに記されていることばですが、これは少しことばが整いすぎています。とても彼は、このような整然とした質問をしたかというと、そのような男ではなかったように思います。おそらく彼は、嘆いたり、あるいは怒っていたでしょうから、日頃の鬱憤をぶちまけるような調子で、おそらくは支離滅裂のことばをならべて、ブッダに訴えたのではないかと思います。しかし、ブッダはその訴えを聞き終わると、じっとその男の顔を見つめながら答えました。

 「村(ガーマ)の長(おさ)よ、ここにひとりの人があって、その心のなかにむさぼりを抱いていたとするがよい。すると彼は、そのむさぼりのゆえに他人と衝突し、他人の怒りにあうであろう。他人の怒りにあえば、彼もまたいかる。やがて人々は、彼を〈乱暴だ〉ということになる。
 村の長よ、ある者が〈乱暴だ〉といわれるようになるのは、これが理由であり、これがその条件である」

 それは、内面の中にある貪欲を指さして、あなたが乱暴者だといわれる原因だということを教えているのですが、ブッダは、さらに重ねて、内なる心のなかに憎しみをいだく時、もしくはおろかさを蔵する時にもまた、同じ結果をまねくことになるということを説きました。しかし、それでもなお彼は心がはれない顔をしています。そこでブッダは「だが、村の長よ」と、さらに語り続けます。

 「また、ここにひとりの人があって、彼はすでに、むさぼる心をすて、憎しむ心をさり、また、おろかさをも捨てさってしまったとするならば、どうであろうか。彼は、もはや、他人と衝突して他人の怒りをかうこともなく、したがってまた、他人の怒りにおうてみずから怒りを発することもないのであろう。かくて人々は、彼を〈柔和だ〉ということになる。
 村の長よ、ある者が〈柔和だ〉といわれるようになるのは、これがその理由であり、かれがその条件である」

 彼はきっと、これまでは自分の評判の悪い理由を外に向かってたずねていたに違いありません。しかし、いまこの師は、彼の内なる心をゆびさして、そこにある貪りや、憎しみや、愚かさがその理由であり、その悪評のうまれる条件なのです。それは彼にも思い当たります。
 そして、それを除けば、なんじもまた「柔和の人」となるであろうと語られたとき、彼もまた「暗中にともしびを齎(もたら)しきたって、〈眼あるものは見よ〉というがごとく」に、人間真相をみることをえて、この師にしたがう在家の帰依者となった、というのがお経のことばの結びです。「暴悪」と題されるお経(相応部経典、四二、一。漢訳同本、雑阿含経、三二、六、「悪性」)に記されています。


 乱暴と柔和の条件を見てきました。確かにその通りで、どうしてそのようなことが起こるのかという原因を外(他人)に探しても意味がありません。なぜならそれは自らの心がうみだすものだからです。それを、激昂している村の長に対して、冷静にかつ的確にブッダは教えを説かれました。「他人の背中は見ゆれども、自分の背中は見えぬ」といい諺の通りで、人の悪いところはよく見えますが、自分の事となるとどうかといえば、中々分からないものです。気を付けて自分のことを一生懸命に見ようとしても気づかない、それどころか自分のことを見ようともしていない人もいます。見ようとしているのに中々見えないということは、客観的に自分を見ることが非常に難しいからです。見ようとしていない、または見たくないということは、自分の悪い部分を見なければならないと考えたとき、それを見てしまったら正さなくてはならないからです。自分の悪いところを直すというのは、それだけでも嫌な気持ちになるものです。しかし、それを正さなければいつまでたってもいまのままで、それどころか悪い部分を隠さなければいけないので、定期的に誰かを悪くしなければなりません。こうはなりたくないものです。

 悪い部分を忠告されるというのは気分の良いものではありません。忠告されると腹も立つでしょう。それでも悪い部分を少しでも改善していけば、その努力の分だけ改善され、いわれることも必然少なくなっていきます。どれだけ年を重ねようが間違いは必ずといっていいほどありますので、完璧に無くすということは難しいですが、いまよりマシになるべく努力していかなければなりません。おそらくこの村の長も同じような気持だったのではないでしょうか。だからこそ、ブッダの在家の帰依者となったのでしょうから。
 できることであれば、怒ることなく素直に笑顔で「気を付けます。有難うございます」といえるようになりたいものです。(非常に難しいですが・・・)
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