仏教解説

44 人間としてのブッダ -無常- ②

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 ここで、あらためて、「縁起」ということばとともに、「無常」ということばを取り上げて考えてみなければなりません。なぜならば、この二つのことばは、仏教の術語のなかでも、もっとも一般的に知られている「無常」ということばは、この「縁起」ということばと切り離して考えることができないからです。つまりは、いまも「爪頂」と題するお経においてみたように、一切の存在は条件の存することによって存し、条件の滅することによって滅する世界においては、なにものも移ろい変わらないものはないのです。だとすれば、縁起の法則の支配するところ、なにものも無常ならざるものはないということになります。


 しかし、仏教の術語のなかでも最も重要なこの二つのことばは、同じく存在のありようを指すものでありながら、また互いに相異なるそれぞれのニュアンスをもっています。端的にいうとすれば、「縁起」ということばは、どこか冷やかであり、それに反して、「無常」ということばは、とても情緒的であり、人の心を揺り動かすものをもっています。それもその筈で、前者は、現実を客観的にありのままにとらえた思想家であるブッダ・ゴータマの表現であり、後者は、伝道者としての立場としてブッダ・ゴータマが、捉えたものを人間にあてて語ったものであるからです。思想家は冷静に語り、宗教者は熱意をこめて説きます。ブッダ・ゴータマの説法のありようは、決して怒号する予言者のようなものではなく、むしろ、静々と語り、なおかつ理路整然たるものであったそうです。古いお経のことばでいえば、「義あり、文あり」ということです。しかも、その中に、豊かに人の心を揺り動かさずにはいられないものを蔵していました。そして、ブッダ・ゴータマが「無常」について語る時にはこのような傾向が強かったのです。

 ある時、ブッダ・ゴータマは、アヨッジャー(阿踰闍)とよばれるところで、ガンガー(恒河)に近いところに、弟子たちとともに住しておりました。アヨッジャーというのは、コーサラ(拘薩羅)の旧都サーケータ(沙計多)のことであって、その郊外のアンジェナヴァナ(安闍那林)には、そこまで大きくない精舎があったといいます。その傍らを流れるのは、サラブー(舎牢浮)というガンガーの支流で、南に流れていくと、ガンガーの本流にいたるのです。支流の中では最も大きな流れの一つです。

 その時、ブッダと弟子たちは、その流れの岸に立っていました。支流とはいっても、日本ではみることもできないほどの大きな流れが、勢いよく流れています。その流れを指さしながら、ブッダ・ゴータマは、弟子たちのほうを振り返り、語りはじめました。
 「比丘たちよ、このガンガーのながれに結ぶ渦巻きをよく見るがよい。それを人々は渦巻というけれども、よくよく観察するならば、どこにもその実体はなく、移ろい変わらないものはないだろう」
 経典のことばは、ここを「如理観察するに、所有(しょう)なく、実なく、堅固なし」と、難しい言葉を並べてありますが、結局は、目の前の真実そのものを指していっているのですから、どんな方にでも理解することはできるでしょう。目の前には、大きな渦巻ができたかと思うと、すぐに消えてしまいます。消えたと思っていると、今度は別の所で渦巻ができています。「所有(しょう)」というのは「そのもの」という意味です。「実」というのは「本質」を指すことばです。そして、「堅固」というのは「常住」という意味なのですが、先の渦巻の説明の通りで、「常住」なるものは全く見ることができません。

 その目前にできては消える渦巻をたとえとして、ブッダ・ゴータマが弟子たちに説こうとする内容は、ほかでもなく、この人間の存在そのもののことだったのです。
 「比丘たちよ、それとおなじように、人間の肉体もまたしかるのである。それもまたよくよく観察してみるならば、どこにも移ろい変わらぬ実体というものはない」
 ここでもまた、経典のことばは、同じく句を使って「所有なく、実なく、堅固なし」と繰り返しいているのですが、それもまた、一人一人がその身に充てて、好みであろうが好みでなかろうが、納得せざるを得ないところでしょう。


 私はまだ若いほうに入ります。しかし、以前には体力もあり、好奇心もあったのですが、いまとなっては、体力はどんどん無くなっていき、臆病になっていったりしております。このように、内面的にも、外面的にも、少しずつ劣化しつつある自分を嘆いております。このような問題(人間存在の無常)は、大なり小なり皆さんがもっていることではないでしょうか。そして、これらに関する答えをも、ブッダ・ゴータマは、様々な譬喩(ひゆ)でもって説かれています。そして、それらを、後の仏教者たちは、次のような偈(韻文)にまとめて記憶しておりました。

 「色(しき)は聚沫(しゅうまつ)のごとくなり
  受(じゅ)は水泡(すいほう)のごとくなり
  想(そう)は陽炎(ようえん)のごとくなり
  行(ぎょう)は芭蕉(ばしょう)のごとくなり
  識(しき)は幻事(げんじ)のごとくなりと
  われらの師は説きたまえり」

 ここに出ている色(肉体)・受(感覚)・想(表象)・行(意志)・識(判断)の五つのことばは、仏陀の得意としていた分析によって、人間の肉体および精神を、様々な要素に分けた結果を表すもので、その一々を、それぞれ、聚沫(うずまき)・水泡(あわ)・陽炎(かげろう)・芭蕉(その皮をむいたとしても、心材をえれない)・幻事(まぼろし)の譬喩をあてて、その変わらざる実体のつかみがたいことを示しているのです。

 もし、そうであるとするならば、例えば花が散る、葉が落ちるという客観的な世界の問題ではなく、人間、つまりは私自身が、刻々と日々移り変わっているということですから、全く他人事ではありません。これは、直接主体にかかわる問題なのです。ということは、説く人も、聞く人も、深く感動し、また情緒的とならざるをえないのです。
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