仏教解説

43 人間としてのブッダ -無常- ①

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 ある時、ブッダ・ゴータマがジェータヴァナ(祇陀林)の精舎にいた時のことですが、一人の弟子の比丘が、ブッダを礼拝して、疑問に思っているところをお訪ねしました。
 「大徳よ、この世には、やっぱり、なにか変易することのないものがあるのではないでしょうか」
 これは、なんとも漠然とした問いでしょうが、彼がこのようなことが疑問になる気持ちは、ブッダにもよくわかっていたことでしょう。
 人間は、たえず移ろい変わるこの世に住んで、いつも、なにか移ろい変わらないものを求めてきました。しかるに、いまブッダは、この世の一切の移ろい変わる現実をありのままに直視して、その法則(縁起)をあきらかにし、そのなかに美しくかつ真摯に生きる術を教えられました。しかし、やはりなにものも移ろい変わらないものはないというのは、この比丘にとっては、どこか寂しいことに思えて仕方がなかったのでしょう。

 「比丘よ、この世にはそんなものはすこしもない」
 といいながら、ブッダ・ゴータマは、その場にうずくまって、少々の土をつまむと、それを親指の爪の上にのせて、比丘に示しました。
 これは、ブッダがときどきしていた所作らしく、お経のなかにもしばしば出てきますが、いまブッダが、この爪の上の土をたとえとして語りはじめたことは、次のようなものでした。
 「比丘よ、この世には、たったこれっぽっちのものとても変わらないものはないのだ。比丘よ、もしも、この爪のうえの土ほどのものでも、常住にして変わらぬものが、この世に存するとしたならば、わたしのおしえる理論と実践とは成りたつことができないであろう。だが、比丘よ、たったこれっぽっちのものも、この世には、そんなものはないのであるから、それで、なんじらは、わたしのおしえるところにしたがって、よく苦を滅することができるのである」
 これは、「爪頂」(相応部経典、二二、九七)と題せられるお経に記されています。

 今までにも何度かいってきましたが、「縁起」ということばは「依って存する」ということです。具体的にいえば、一切(全て)の存在は、条件の存するによって存するということであり、条件の滅するによって滅するということです。春がきてもろもろの条件がととのうことによって、一斉に花々が開くのであり、秋がきてその諸条件が変わることによって、結果として葉が落ちるのです。
 それは自然の存在のことにすぎず、人間世界のことはまた別であると考える人がいたとすれば、それは全く料簡違いといわざるをえません。人間もまた、自然と同じでこの世の存在の一部として、存在の法則のもとにあるのです。その法則の支配を逃れて生きることのできる人間はどこにも存在しません。だからこそ、ブッダ・ゴータマは、かの菩提樹のもとにおいて存在の法則を悟り得たとき、それによって直ちに、自らの生涯の課題を解くべき鍵を得ることができたのです。あるいはその大覚を成したときに発したことばをいうなれば、
 「かの万法のあきらかとなれるとき
  彼の疑惑はことごとく消えさった」
 ということを得るのでした。しかし、人は、かかる存在の法則のもとにあるからこそ、移ろい変わらないものを求める心の誘いを受けるのです。なぜならば、すべては移ろい変わるということは、どこか心淋しいところがあるからです。

 この比丘もまたそのような考えだったからに違いありません。しかし、ブッダはきっぱりとその問いに否定の答えを返しました。そうでなくては、ブッダのおしえの理論を実践もなりたたないものになるといわれました。その答えには、どこか非情に感じるところがあります。しかしながら、真理というものは、いつも非情になるのです。
 真理というものは常住不滅なるものであるが故に、いかなる否定もできないものです。もし、否定をすることができるものであれば、それは真理とはほど遠い、全く異なったものとなります。
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