仏教解説

41 人間としてのブッダ -縁起説法- ②

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 さて、なぜこのお経を縁起の法に関する説法として第一にとりあげるのかというと、それはほかでもありません。縁起の法によってなる世界は、この<一切>の世界のほかに、神の世界があるとするならば、縁起の法はそこには当てはまりません。なぜならば、神の世界というものは絶対者の世界に他ならないからです。また、絶対の概念と、縁起の概念とは、完全に相対する二つの概念です。そのことについては、さらに色々と語らなければいけないところですが、今はそのことに追究しません。ともあれ、ブッダ・ゴータマが菩提樹のもとに端坐してじっと凝視したものは、この<一切>の世界以外のものではありませんでしたし、ついにそこで把握することを得た法は、この<一切>の世界の法則以外のなにものでもありませんでした。
 これを、現代の哲学の術語で表現するならば、まさしく存在論そのものです。『ウダーナ』(自説経)と称する一つの経が、菩提樹の下に坐したブッダ・ゴータマを描いて、

 「まこと熱意をこめて思惟する聖者に
  かの万法のあきらかとなれるとき
  彼の疑惑はことごとく消えさった
  縁起の法を知れるがゆえである」

 と述べているのは、まさにそのことなのです。ここに出ている「万法」というのは、この〈一切〉の世界の存在の他のなにものでもありません。その万法のすがたが、端坐して思惟する聖者の前に、霧が晴れるようにあかるくなっていき、その時に正覚は成就され、その際に把握せられた法則が、やがて<縁起の法〉とよばれるようになったのです。

 しかし、ブッダ・ゴータマの数多い説法のなかで、彼が人々を前にして存在そのものについて説いたものは、あまり見ることができません。それもそのはずで、彼がその出家してからこのかた、常に抱き持っていたところの課題は、存在そのものに関するものではなく、人間に関するものだったからです。生・老・病・死の問題であり、それを不安(恐怖)に思う人間の問題でした。現代風のいい方をするならば、人間の有限性の問題であり、それに対して恐怖する人間を、どうすれば救うことができるかという問題でした。それは、少し考えてみると、解決することは非常に困難ではなかろうかという課題がありましたが、彼はついにその課題を説く鍵を発見したのです。それがやがて、「縁起」と名づける存在の法則となりました。それを、そのまま人間の問題にあてはめることによって、ブッダ・ゴータマはついに、解決の道は困難だと思っていた課題への解答を得たのでした。

 これらの関係から、ブッダ・ゴータマが縁起の法について語る場合には、必ず存在そのものではなく、人間の問題に重きを置いています。彼が哲学者のように、もっぱら存在そのものについて説いた例は、あまりありません。しかし、今までも出てきた一つのお経である「一切」と称するお経には、それに関することを説かれています。では、彼が、この存在の真相を前にして、どのようにして縁起の法というものを把握したのでしょうか。それを見ていきましょう。
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