仏教解説

39 人間としてのブッダ -パセーナディ王の述懐- ③

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 もうひとつの述懐は、もっと具体的で、なおかつ身近なものでした。それは次のように述べられています。
 「また世尊よ、わたしのもとに二人のすぐれた工匠がいる。その一人はイシーダッタ(梨師達多)といい、他の一人はプラーナ(富蘭那)という。彼らはわたしに仕える大工である。わたしは彼らに生業をあたえ、彼らはわたしによって名声を博した者である。しかるに、彼らがわたしにたいして払う尊敬の念は、とうてい、彼らが世尊にたいして払うそれにおよばないのです」
 このように語っているパセーナディ(波斯匿)は、なにも不満をいっているわけではありませんでした。むしろ、そういっている顔には満足な笑みをうかべていたに違いありません。
 「ある時のこと、わたしは、軍事の旅にでて、彼らをともない、せまい民家に宿(とま)ったことがある。その時、彼らは二人で、夜おそくまで法についての物語をしていたのだが、さて、寝(しん)につくにあたると、世尊のいますと聞く方角に頭をむけ、わたしのほうには、足を向けてねたのです」

 それにはコーサラ(拘薩羅)の王も驚いたことでしょう。しかし、そこでもまた、怒っているのではありません。
 「世尊よ、わたしは、それをみて思ったことであります。<まことに稀有のことである。じつに未曾有のことである。これらの工匠たちは、わたしに仕える者でありながら、彼らがわたしにたいして払う尊敬は、とうてい、彼らが世尊にたいして払うそれの比ではない。これは、きっと、彼らが世尊のおしえにおいて最勝殊妙なものを知ったからにちがいあるまい>と。それによってもまた、わたしは、<世尊こそはまことの正覚者にまします>と、わが感慨を述べざるをえないのです」

 このお経は、このようなパセーナディ王の述懐を、七項目におよんで書き連ねてあります。たくさんあるその中から、もう一つ、この王の見聞きしたものを記しておきましょう。それは、ブッダ・ゴータマが、外道の論客たちを迎えたときのことです。それを、この王は次のように語りだしました。
 「また世尊よ、わたしは、いく人かのクシャトリヤ(刹帝利)出身の賢者を知っている。彼らは聡明にして、かつ論議につよく、その聡明をもって、他人の見解を手もなくたたきつぶすことができる。しかるに、世尊よ、彼らはかつて、あなたがサーヴァッティー(舎衛城)に来られることを知って、質疑を用意して、待ちかまえていたことがあった。<まず、われらはこのことを質問しよう。それにこう答えたら、こう反駁しよう>と。そのように、すっかり手筈をととのえて、彼らはあなたを訪れたのです。ところが、世尊よ、あなたは、彼らをむかえて、いつものように法を説き、教えみちびき、激励し、歓喜せしめたもうた。彼らは、ついに一言の質問もせず、いわんや、反駁などあろうはずもなく、そのまま世尊のお弟子になってしまいました」

 この時代の新しい思想のにない手は、たいていクシャトリヤでした。その中には、同じクシャトリヤ出身のパセーナディ王がよく知っている人もたくさんいたことでしょう。その彼らが、同じくクシャトリヤ出身のブッダ・ゴータマをむかえて、ひとつ論議をこころみようとするのを、王もまた興味をもって見ていたに違いありません。しかし、彼らは、ろくに質問せず、また反駁(反論)をしようと思うことすらできず、その場にいた全員がブッダに従うもの(弟子)となってしまいまったのです。そして、
 「そんなのは、わたしのかつて見たことのないところである。それによっても、わたしは、<世尊こそはまことの正覚者にまします>と、わが感慨をのべざるをえないのです」
 と、また同じことばが繰り返されるのです。

 これらの述懐は、思想家や宗教者とは異なり、甚だ身近なものであり、また表面的でさえもあります。しかし、ほとんどその全生涯を、同じ時代の人として、また、同じ国の人として、尊敬と親愛とをもってブッダに親近してきたこの王の述懐には、じゅうぶんに吟味する必要があります。ことに、それらの述懐がことごとく、王自身の見聞と体験にもとづいているのですから、一読してじっと眼をつぶれば、生ける人間としてのブッダ・ゴータマのすがたが、自然にイメージを結んで現われてくるように思われます。
 このようなパセーナディ王のブッダ・ゴータマにたいする傾倒は、時の人々によって次のようなことばをもって表現されました。
 「サキャ(釈迦)族はコーサラ(拘薩羅)国のパセーナディ(波斯匿)王にたいして臣下の礼をとる。サキャ族の人々はかの王パセーナディにたいして、従順であり、挨拶をなし、席を立って合掌し、謙遜な態度をとる。それとおなじく、コーサラのパセーナディ王は、如来にたいして、従順であり、挨拶をなし、席を立って合掌し、謙遜な態度をとる」

 これは、「起世因本経」とよばれるお経(中部経典、二七。漢訳同本、中阿含経、三九、「婆羅婆堂経」)が引用して、「法は人類の最上なるものなり」と、法(教え)の優越を語ったことばです。コーサラの王に臣従するサキャ(釈迦)族の人々と、サキャ族より出生したブッダ・ゴータマに低頭するコーサラの王、その取り合わせを、時の人々もまた、興味深く語りあったのでしょう。


 パセーナディ王のブッダにたいする尊敬(尊崇)と、親愛がよく出ていて、だからこそ、どのことばにしても譬えを使っているわけではなく、ありのままの現実を語っていることに他なりません。パセーナディ王のことばを見ていると、上にも書いているように、その時の情景が思い浮かんできます。本当にブッダ・ゴータマを慕っていたのでしょう。
 増谷先生の「人間としてのブッダ」という本の題名に相応しい部分であったのではないかと思います。(どこまでいこうとも「ブッダ」なのですが・・・)
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