仏教解説

38 人間としてのブッダ -パセーナディ王の述懐- ②

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 パセーナディ(波斯匿)の述懐のひとつは、このように述べられています。
 「世尊よ、わたしはクシャトリヤ(刹帝利=武士)出身の王です。わたしは、殺すべき者を殺し、剥奪すべきを剥奪し、追放すべき者を追放することができる。しかるに、わたしが裁きの座について裁判しておるとき、なおかつ、わたしのことばを中断し、あるいは妨害する者がある。わたしが裁判官の座にあるときには、けっしてそのようなことがあってはならぬと戒告しても、それでもなお、効きめがないことがあります」

 前に出した「拘薩羅相応」のなかのお経(七、「裁断」)でも、この王は、裁断の座につくのがいやになったと漏らしています。このような気持ちになるのは、わたしたちにとっても理解できないことではないでしょう。法廷というところは、人間の醜悪な面をさらけだすものです。

 たとえば、「自分は悪くなく、相手だけが悪い」とか、「勝てばお金や地位や名誉が得られる」など、このような欲望うずまくところだからです。普段どれだけ外面をとりつくろっていたとしても、追いつめられればその奥底にある本性が出てしまうものです。この王も、そのありさまを見てきたのでしょうから、座につくのがいやになったと漏らしたとしても、全く不思議なことではありません。そして、この法廷での様子を、ブッダの説法の座と比べてこのようにいっています。

 「しかるに、世尊よ、わたしがあなたの弟子たちのさまを見ていると、まるでちがうのです。あなたが何百の会衆(えしゅ)をまえにして法を説かれると、彼らは咳をすることさえありません。いや、ある時のこと、一人の比丘が咳声を発したことがある。すると、他の比丘が彼をひざでついていった。<静かに。静かに。声をたててはいけない。いまわれらの師が法を説いておられる>と。世尊よ、それをみてわたしは思った。<これはまったく稀有(けう)のことである。刀杖(とうじょう)をもちいることなくして、かくもおおくの会衆が、かくもみごとに調御せられるとは、いったい、どうしたことであろうか>と。わたしは、このような集会をほかにみたことがない。それゆえに、わたしは、<世尊こそはまことに正覚者にまします>と、わが感銘を表せざるをえないのです」

 法廷における人々を、ブッダの説法の座に集まった人々にくらべるというのは、パセーナディもずいぶん見当違いの比較をしたものだと思うのですが、王にとっては、法廷でのことと、ブッダの説法が、同じように思われたのではないでしょうか。「刀杖」とは、武器のことをいうことばです。その武力を一手ににぎって、天下を恐れさすことのできる王が、たかが法廷に座する数人をどうしても思うようにすることができません。それなのに、世尊が法を説かれるとなると、幾百人の会衆がまるで水を打ったように静かになります。これは、いったいどういうことであろうかと考えるに、彼は、武力では及ぶことができないものが存在するということを理解したのです。
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