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~苦しみの分だけ幸せになれる~

日常の出来事の中で気が付いた事を少しずつ書いていこうと思います。

80 仏教とはなにか -仏教思想史からみた初期仏教- ⑭

仏教解説

 何よりもまず、自分が今ここにいて、その内面を、同時に多様に展開する現実への対応を考えて、心に思い、言葉として口に発し、身体が行ないます。それに続いてそれらの根拠に踏み込んで、執着する自我。自我への執着に突き当たり、それらの脱却・超越・解放・解脱に向かいます。そしてその脱却から解脱までを実現してゆくのは、主体としての自己なのであり、しかもその結果としての解脱に到達するのも、やはりこの自己に他なりません。

 以上をまとめて記すならば、人間において、その出生からの一瞬ごとの絶えざる行為の連続の間に、その主体であるアッタンは、日常に対し、また自分において、自己肯定と自己否定とを反復しながら自我を固めていきます。もう一方では、ついにはその自我を超克する無我を、その自己が成し遂げて、真の主体でありあくまで平安な自己を獲得し、それを拠り所とします。概ね以上が「ダンマパダ」の教える無我説とされましょう。

 やがて初期の散文経典になると、アッタンはほぼ「自我」に類するものと考えられ、仏教特有の分析がなされて、「私のもの」(ママ)と「私」(アハム)と「私の自我」(メー アッター)に三分割されます。

こうして散文経典にみえる無我説の大部分は、「これは私のものではない」「これは私ではない」「これは私の自我ではない」という定型にほぼ移行しており、この文中の「これ」に具体的なな一つ一つをあげ、非常に煩雑をきわめるほどに同種の文を反復し強調します。

 それでもなお、散文経典にも、アッタンを「主体的な自己」と解釈する例もあります。

 最もよく知られるのは、以前に引用した「ダンマパダ」第236詩などに用いられている「洲(す)」の言語のディーパを、サンスクリット語のドゥヴィーパに還元するという正統説から切り離して、やはりサンスクリット語のディーパを当て、「あかり」と解釈します。それにより、漢訳の四阿含の中のいくつかのお経には、「自己を燈明(とうみょう)とせよ、他を燈明とするなかれ。自己を帰依(きえ)とせよ、他を帰依とすることなかれ」と説く文があります。

  この句はさらにエゴイズム(利己主義)やエゴセントリズム(自己中心主義)を排すべく、普遍的な法(ダンマ、ダルマ)を添えて、「法を燈明とせよ、他をを燈明とすることなかれ」の句が続きます。右の両者を合わせて、「自燈明、自帰依、法燈明、法帰依」となり、この句や同類のフレーズが、しきりに散文経典に説かれています。

 また以前に引用した「スッタニパータ」は、第45詩を除く第35〜第75詩の合計四十詩全ての末尾に、「犀(さい)の角(つの)のごとく ただ独り 歩め」という繰り返し
の句をつけます。

 いずれにしても、アッタンは、自分と自我と自己という様々なあり方を含んで、非常にアンビヴァレント(相反が同時に両立)なありかたを表します。つまり、同一のアッタンにおいて、日常的な自分が自我へ、あるいは自己へと転化し、もしくは自我が自己へ昇華し、または自己は自我へ転落するというカオス(混沌)を内に秘めています。

 無我という教えは、自分ー自我ー自己という、日常性から宗教性にいたるあらゆる局面において、常にその中核の役割を果たすものを考察しつつ、さらに一方進めて、自らはどのようにあり、どのように思い、どのように語り、どのように行うかという、自らの行為・実践に直結します。その意味で、無我説は色濃く実践的という性格を担う点において、苦および無常の教説とはややその形は異なります。*


*三枝充悳著 「仏教入門」
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79 仏教とはなにか -仏教思想史からみた初期仏教- ⑬

仏教解説

 ⑤無我ということばは非我とも訳されます。端的にいえば、無我は「我なし」、非我は「我に非ず」であり、「自我がない」と「自我ではない」とをあらわしています。

 無我の原語は、我・自我を意味するパーリ語のアッタン、サンスクリット語のアートマンに、アンまたはニルという否定を示す接頭語がつけられます。

  この教説はすでに「スッタニパータ」に詳細に記され、その合計千百四十九詩の半分以上の詩が、直接・間接に無我説と関連します。

 それらの諸資料に特徴的な点は、執着やそれと同義語(アーラヤ、ウパディ、ウパーダーナなど)の否定を強調します。ここにいう執着は、これまでに書いてきた欲望とは違い、むしろ特定の個別ではなくて、漠然として抽象的でありアノニム(無名)のままに、人間存在(実在)の根幹に隠れ棲み、底深く根を下ろして居座り続け、たじろぐことがありません。だからこそ、執着し、とらわれ、こだわるのであって、この種の、ある混沌に他ならない執着から、個々の具体的な欲望が次々と生み出されます。そのようななんとも無意味としか言いようのない執着の中で、最も強烈で頑固であるのが、まさに我執であり、それは、執着のさらに根底を自我が固めていることにもとづきます。

  このような執着ー我執ー自我というルーツを、「スッタニパータ」は明確に指摘したうえで、それの抑制・否定・捨離・超越を説きます。以上が無我説ということができます。

 このことを日常のわかりやすいことばで表現するならば、「スッタニパータ」の教える無我とは、「執着、とくに我執を捨てる」「こだわらない」「とらわれない」と総括できましょう。

 それよりやや後代に成立し、しかし最も広く知られる韻文経典の「ダンマパダ」においては、これまで「自我」と訳してきた原語(パーリ語)のアッタンに、少し変化が加わります。

 つまり、そのアッタンは、これまでの「自我」のほかに、ときに「自分」が、そして「自己」と訳すのがふさわしい用例が、特に目立ちます。

  「最初期仏教の金言的説法集」とも称されるこの「ダンマパダ」に、アッタンが「主体的な自己」を説く詩は、分散して約二十あまりあり、その例を三つほど引用します。

  自己こそが 自己の主 他の誰が 自己の主人ならむ
  実に 自己をよく制御したれば まこと 得難き主 得るなり(第一六〇詩)

  汝 自己の洲(拠りどころ)を 作れ 速やかに努めよ 賢くあれ(第二三六、第二三八詩)

 まこと 自己こそが 自己の主 自己こそが 自己の拠りどころ
  さればこそ 自己を制すべし 商人の良き馬を制するがごと(第三八〇詩)

  これらに他の用例を加えて、無我説を見ていきましょう。*


*三枝充悳著 「仏教入門」

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78 仏教とはなにか -仏教思想史からみた初期仏教- ⑫

仏教解説

  こうして無常という語に結晶することにより、一切は無常はであるとの自覚と共感とにもとづく体験が、前に書いた「苦」の項目の④に出てきました「無常にもとづく苦」に結びつきます。しかも右に記したように、無常はほかからの要因によるのではなくて、自らが自らに招いており、しかもそれが、自らに必ず課せられています。

  つまり、自己否定・自己矛盾の底知れない深淵がこの無常において露(あら)わになり、このことからただちに、自己否定・自己矛盾を本質とする苦は帰結されるといえるでしょう。

  前に書いた「苦」の考察の冒頭に、苦はブッダおよび仏教の時間的な始元と仮定しました。そしてここに、無常ー苦の論究によって、無常は苦の根拠の一つであることが明白となり、こうして、無常は、ブッダまた仏教の論理的な始元に置かれることになります。

 さらにまた、少なくとも初期仏教においては、無常は常の、また無常ー苦は常ー楽のアンティテーゼ(止揚)としてあるのではなく、常や楽とはなんの関わりも持ちません。むしろ初期経典は、率直に無常と苦とを説いていて、そのような無常-苦という現実の凝視と体験とにもとづいて、その超越が求められ、やがては理想のニルヴァーナ(涅槃)に到達する、と説き進めます。

 付け加えると、前に「十四難無記」を書いた中に、「世界は常か無常か」の問いがその第一に置かれていました。この場面の原語はつねに、常はサッサタ(シャーシュヴァタ)、無常ははアサッサタ(アシャーシュヴァタ)に統一されていました。そこには、ここに説明した無常の原語であるアニッチャ(アニトゥヤ)という語が用いられる例は、一つもありません。

 また、後に書いていきますが「中道」にあらわれる不常(不断)においても、その不常はアサッサタであり、アニッチャは出てきません。漢訳においても明確を欠く無常・不常も、原語では、はっきりと使用を区別しています。

  さらに無常という語に明白な通り、仏教はその最初期から、自己と世界とをふくむ現実の全てを、静止の状態ではなくて、必ず運動の相のもとに置いていた、ということができます。つまり、仏教には一貫してスタティック(静かで動かないさま)な態度は微塵もみえず、絶えずダイナミックなありかたに終始し、一切を消滅変化する流動のままに委(ゆだ)ねた、といってもよいでしょう。*


*三枝充悳著 「仏教入門」

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77 仏教とはなにか -仏教思想史からみた初期仏教- ⑪

仏教解説

 ④無常にあたるパーリ語はアニッチャ(サンスクリット語ではアニトゥヤ)であり、まれにアサッサタ(アシャーシュヴァタ)、アドゥフヴァ(アドゥルヴァ)の語も資料に記されています。ただし、これらの語は、「スッタニパータ」他の韻文で示された最古の経典には、ごく稀にしかあらわれず、用途も無いに等しいです。

  それと同時に、たとえば「スッタニパータ」第五七四ー第五九三詩の計二十の詩、また「ダンマパダ」の各所に散りばめられた約二十の詩は、人間存在(実在)に必然的な死に関して、厳粛で切実な痛みや哀惜(あいせき:人の死をかなしみ惜しむこと)を繰り返し詠じています。それらは、死、死の不可避、死の残酷を強調するとともに、その死の嘆き悲しみからの脱却と捨離とを繰り返して説き教えて、「生まれたものは死すべきもの」「生あるものはかならず死に終わる」などの句を示します。

  これらはやがて、

 すべて生起したものは、いかなるものも消滅するもの

 という一種の定型句になり、パーリ五部の散文の諸経典にも、また漢訳の四阿含にも頻出して、「生者必滅」が繰り返されます。

 以上は死に関して書いてきましたが、それにいたるまでの老や病や災いなどについても、ほぼ同様に説かれます。さらに散文経典においては、人間存在(実在)に内在し、あるいはそれをとりまく一切のものに、同類の表現があるほか、これらには上述のアニッチャ・無常などの語が多く使われて、その例文は二百以上あります。

 しかも、死も老も病も、それらを含む内なるものの無常も、そして外なるものの無常も、それどれもが、それとは別の他者が襲いかかってくるのではなくて、自らが自らに招きよせていると説きます。しかもそれは、土の器が自らに壊れ、鉄が錆るごとくにと喩えられます。

 このことに関連しながら、これらのおびただしい数の例文を詳しく調査して特徴的なことは、無常を示す語が、いつでも、何の前置きもなく、なぜ無常であるかなどのいわゆる理論的な根拠は一切問われることなく、いうなれば突如として飛び出してきます。このように、無常という語には、原因も理由も根拠も、またその起源も、全く追求されることがありません。

 このような用例の特徴から明らかなように、無常は、人間存在(実在)の最も赤裸々な事実・現実をそのあるがままに直接に感性が受け止め、受け入れ、それに触発されて生じ、またとりわけ深い関心と共感とを伴いつつ湧き出た、ある種の詠嘆(えいたん:深く感動し声に出して表現すること)としか表現しようがありません。

  このような詠嘆は、人間存在(実在)の最奥の感嘆詞なのであるから、それが無常はの語に凝縮されても、これは仏教の特殊な術後なのではありません。それどころか、無常は、そのような術後的発想とは何の関わりも持たずに、ただ底知れない詠嘆にもとづいて、最初期の韻文経典が人間存在(実在)の現実を詠じている中に、ふとあらわれます。さらに韻文経典においても、いうなれば裸の無常がそのまま登場していると、いうことができます。

 もちろん、このような現実に直結している無常はという詠嘆は、おそらくブッダ自身が実際に体感しつつ、人間存在(実在)をありのまま直視・凝視し、認識し、体得して、その奥底から、それは発せられたのでしょう。*


*三枝充悳著 「仏教入門」

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76 仏教とはなにか -仏教思想史からみた初期仏教- ⑩

仏教解説

 ③人間存在そのもの(実在)に関して、生存、出生、老、死、病、業、輪廻その他の多くを、諸資料は掲げます。

  この人間存在(実在)にもとづく苦は、最も鮮明な典型が、いわゆる生・老・病・死の四苦とされ、それに怨憎会苦(おんぞうえく)・愛別離苦(あいべつりく)・求不得苦(ぐふとくく)・五蘊盛苦(ごうんじょうく)を加えた八苦に示されます。

 生まれる、老いる、病む、死ぬ、これらはひとえに自分に属し、自分のことでありながら、怨み憎むものと会わなければならず、愛するものと別れなければならず、みずから得られないものを求めてやまないという、人間存在(実在)のどうしても免れ得なない、逆説的な現実の様態は、そのまま苦に通じ、総じてありとあらゆる一切(五蘊)が苦に満ちている、と説きます。

 さらに検討すれば、生苦についても、生まれたときに母親の非常に狭い産道を通らなければならないという感覚的な苦にはじまり、自分達の思う通りに生まれることはできず、さらには必然的に老い病み死ぬものとして生まれたという、生まれることの否定・矛盾が、出生時にすでにプログラムされている点において、まさしく自己否定的・自己矛盾的であり、それらにもとづく苦を、生あるもの、とくに人間は生まれるときから負っています。

  また仏教でいう「生」は、常に「生ずる」と「生まれる」であって、「生きる」ではありません。

 この人間存在存在(実在)にもとづく苦は、先の無知にもとづく苦とともに、きわめて人間的な苦ともいえます。またこれら②と③との二種の苦は、①の欲望にもとづく苦が具体的・個別的・一過的(ほんのわずか)であるのに比べると、あまりにも本来的で不可避であり、苦の意識が少ないかもしれません。しかし、これらの二苦は、忘れ去るのが困難であって、ほぼ常に各人に付随していて、実はより深く、より強く、「自己の思う通りにならないこと」という苦の本質を暴露させます。

 ④無常にもとづく苦は、次の無常のところで書いていきます。

  以上の苦の論述で明らかなように、苦は生あるもの(サッタ・サットヴァ:衆生または有情)、とくに人間に、不可避の必然的なありかたであり、しかも苦における最大の問題は、結局は自己に帰ります。つまり、自己が自己に背き、否定し、矛盾して、それを自己がいっそう促進します。だからこそ、それぞれの節目において、自己はさらに模索し探求し努力し精励(精一杯励むこと)します。そのようないとなみの総体がまさに生きるということなのであり、そのプロセスを経過してはじめて、より大きな充実が得られるようになります。そして、その活動と過程と結果とがさらに充実したり、あるいは深化してゆき、その極限の体験と洞察において、苦からの離脱解放を獲得する、と仏教は説きます。

 このような苦からの解放とは、苦の本質である自己否定・自己矛盾をさらにみずから否定することであり、いうなれば二重否定の構造を持ちます。そしてそれが果たされた境地において、自己はいわば真の本来の自己はに転身し、文字通り自在であり、絶対の平安であるニルヴァーナが現前します。以上を、仏教はその最初期から一貫して理想としています。*


*三枝充悳著 「仏教入門」

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