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~苦しみの分だけ幸せになれる~

日常の出来事の中で気が付いた事を少しずつ書いていこうと思います。

67 仏教とはなにか -仏教思想史からみた初期仏教- ②

仏教解説

 私達は誰しもがこの現世に生きている一個の人間として、様々な苦を内に抱き、世俗の欲望(煩悩)に一時的に目のくらむことは避けられないでしょう。それでもなお、仏教の説く現実中心は、その苦をそのあるがままに見つめて、その消滅を、そしてさかんに誘いかける欲望(煩悩)を自覚して、その超克を、この現実の世界において実現しようとします。

 さらにそれは、理想の境地であるニルヴァーナ(ニッバーナ:涅槃:絶対の安らぎ)を、またそれと同義の解脱、つまり大いなる解放(自由)を、まさしくこの現実において獲得しようとします。それを目指す精進努力、そのこころ(主体)の確立、同時にその過程に生ずる種々の執着からの解放を、その現実中心は繰り返し強調し、日々の歩みに実現しようとします。

 それらを強固に支えるのは、仏教のいわゆる宗教性に他なりません。宗教としての仏教は、上述の通り、理想を、少なくも志を、当時の人々だけではなく全人類に与え、励まし、鼓舞する、そのような現実中心に終始します。しかもその理想を掲げ続けるところに、仏教、また宗教はあり、その諸テキストは、現実処理ではなく、現実を導くべき理想のもとに、諸説を展開します。これを宗教哲学的に表現するならば、あくまで現実に根ざして立ちつつ、その当の現実における「超越と内在との一致」(超越即内在)の途(みち)を踏み固めていきます。

 なお大衆に情熱的に呼びかけて非日常的な感動にしばらく誘うようなカリスマ的人格から、ブッダははるかに遠く離れています。

 それでもなお、そのような現実中心を掲げる基本的立場には、しばしばふりかかってくる、容易に回避しがたい一つの難問があります。それは、ブッダ当時のインドにおいても、六十二見といわれるほどにきわめて多彩な諸議論が自由奔放におこなわれていた中に、すでに明らかにされており、その後もたえず全人類に共通していうたテーマでもあります。

 それをいわゆる哲学に求めて一言に凝縮するならば、現実の奥に潜み現実を支えるという形而上学への対応、また形而上学的志向との対決、ということができます。

 この形而上学に導こうとする諸のテーマを、パーリ五部と漢訳四阿含から成る初期仏教経典は、整理し統括して、次の十種に要約し、これをしばしば「十難」(十の難問)と術語化します。それを分類すると次のようになります。

⒈①世界は、常住(世界は時間的に無限)
 ②世界は、無常(世界は時間的に有限)
2.③世界は、有辺(世界は空間的に有限)
 ④世界は、無辺(世界は空間的に無限)
3.⑤身体と霊魂とは、同一
 ⑥身体と霊魂とは、別異
4.真理達成者(如来)は、死後に
 ⑦生存する
 ⑧生存しない
 ⑨生存し、また生存しない
 ⑩生存するのでもなく、また生存しないのでもない

 なお、これに次の四種を加えて「十四難」とする用例もあります。

 1.①と②とのあとに、(一)常住また無常、(二)常住でもなくまた無常でもない
 2.③と④とのあとに、(三)有辺また無辺、(四)有辺でもなくまた無辺でもない

 この十難を掲げる経典は、パーリ五部のすべてと漢訳の二つの阿含経とに、合計二十の資料があり、そのうちのいくつかのお経は数回反復します。また十四難を説く資料は、パーリには欠けています。それは、漢訳の二つの阿含経に計五ヶ所あり、その五つの各々がパーリ諸資料の説く十難の個所に相当していて、パーリの十難が漢訳の十四難に転じたことが、資料によって判明します。*


*三枝充悳著 「仏教入門」
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66 仏教とはなにか -仏教思想史からみた初期仏教- ①

仏教解説

 パーリ五部と漢訳四阿含とにより、ブッダにはじまる初期仏教に関して、その基本的立場とみなされるものを論じ、そのあとに、仏教諸術語の導く諸項目について記しています。この基本的立場は、それ以下の諸項目においても、また仏教の全体を通じても、そのまま一貫します。

 初期経典に示されるブッダの教説は、ブッダの側からの一方的な提示という例は少なく、ほぼ大部分は、ブッダを訪ねた人々が問い、それに応じてブッダが答えるという形をとります。人々の問いは多種多彩であり、ブッダはそれらに臨機応変に、しばしば比喩を交えながら、適切に穏やかに答えています。そのような点から、対機説法、つまり人をみて法を説くというありかたが、とくに初期仏教には明確に特徴づけられています。

 さらにその問答においては、問う人の現実の苦悩がただちに回復されるような直接的な処置や方策を、ブッダが教えるというのではなく、その苦悩に対処してゆく現実的なありかたや態度などをめぐって解答がなされています。それらを伝える諸資料から、ブッダや初期仏教には、現実中心と、心の重視という、二つの基本的立場を指摘することができます。ここでは、その現実中心について書いていきます。

 この問答の経過には、いわば外部の状況その他が格別に変化することはみられず、全てがもとのままで変動はありません。それでありながら、相手はみずから問い、ブッダの答えを聴いているうちに、自身の苦悩が実は苦悩ではなくなり、いつしかその苦悩が自分の内部において消滅しており、心安らかな境地にもたらされていき、そのような図式を描いて進行します。

 ブッダの答えには、たとえばかつてヴェーダ聖典やバラモン教に説かれたような、人間の力をはるかに絶した神も、創造を司どり、あるいは宇宙の進行その他を管理する神も、また祈祷や呪術や魔力を演じる神秘も、さらにはウパニシャッドに示された宇宙や人間の根源にあるという原理的存在なども、すべて登場せず、むしろそれらはすべて退けられます。いうなれば不可思議で超自然的なものは、ことごとく排斥し、それに類したものもすべて捨て去ります。

 後世の仏典にも説かれる種々の神通(アビンニャー、アビジュニャー)をはじめ、仏滅後に次第に増加して初期経典にもみえる超人化や、さらに神格化の施されたブッダ像は、空想をもてあそんでとどまることのないインド人の特性によって、付加され粉飾された産物にほかならず、それら虚飾のすべてを取り払っても、ブッダの偉大さをなんら失うところはありません。むしろ最初期の経典は、そのような虚構には全く触れず、ブッダが普通に生きる現実の人物と変わらないままに立ちあらわれ、ふるまい、語ります。

 その際、問いはこの現実から発せられ、答えもこの現実に即してなされ、終始この現実に徹して、現実における解決を果たそうとします。ブッダは、総じて仏教は、常にこの現実を直視し凝視して、問答も説法も現実からは離れないという立場にもとづいており、それを現実中心と表現することができます。

 ただし、この現実中心は、現実の外界が意識とは独立に存在していると考える素朴実在論そのままではもちろんなく、つまり功利主義(功利を一切の価値の原理と考える説)や刹那主義(過去や将来を考えず、ただこの瞬間を充実すれば足りるという考え方)と結びつく現実主義でもありません。また日常の卑俗な現実に浸りきって、その充足に溺れていて、何も目標も抱かず、理想も忘れ去って、本来の志も持たない、ただ安易で気ままな現実主義でもありません。

 その意味において、これまで書いてきたような、ひたすらネガティブにみずから傾斜し、他からもマイナスとしてのみ評価されるような現実中心ではなく、それどころか、そのようなものとは正反対のはるかにポジティブな現実中心ということができます。*


*三枝充悳著 「仏教入門」

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問題のない自分

日常

 「好事魔多し」という言葉があります。これは「良いことや、うまくいきそうな事にはよく邪魔が入りやすいもの」という意味です。

 人の行動には初動に当たる動機が必ずあります。無意識に行うのは別として、心に思っていないことをするということはありません。つまり、まず心で思う、それが人間社会において善であれば問題はありません。それとは逆に、その心で思うことが人間社会において悪であれば、もちろん問題となります。だから仏教では、まず心においての善悪に重きを置きます。

 さてここで、独りよがりではなく、人間社会において善とされる部類に入っている事柄を実行しようとすると、なぜかいつも邪魔が入るというのは皆様も記憶にあるのではないでしょうか。そんなときに「なぜ」と疑問を抱くことは当然です。それでも、善とされる行為を実行すると、またまたあらゆる手段を用いて止めてくると、やはり再度「なぜ」と疑問が起こります。それを普通の人に話をすると「(善なる行為を止めようとするのは)おかしい」という事が挙がってきます。それでも勤勉な人達は善なる行為の静止を行ってくる、これは一体どういうことでしょうか。

 「悪人は自らの悪事を暴かれる事を嫌う」といいます。つまり、自らの行いが悪事ということを理解していればいるほど、それが暴かれた際の責任が取れないことを分かっているから邪魔をしてきます。また、上記に「あらゆる手段を用いて」とありますが、これには眷属とよばれる味方(実際はお金や物などで付き従っているにすぎず、それらがなくなるといなくなる)も含まれ、その人達に自分の存在を隠して自分の意見を言わすというやり方をする事もあります。その場合、言わされた眷属とよばれる人達にも発言した責任はありますが、責任をとることができないほど大きな問題であれば、あっさりと切り捨てます。逆にその眷属を切り捨てるということは当然あります。

 ここで一番の被害者となるのは、善と認定される行為を実行している人です。悪い事をしていないのに「(善の行為をしている)あいつは極悪人だ」と吹聴してまわられ、立場を悪くされる事が非常に多いからです。まさに「好事魔多し」といえるでしょう。しかし、甘い言葉にそそのかされ、悪の片棒を担がされている人は当然自ら行ったことの責任はあります。ここにおいて一番問題を起こしているのはいうまでもなく人間社会において悪と認定される行為をしている人達です。

 ただ、この善と認定される行為の賛同者はもちろんのことですが多数いらっしゃいます。その人達は一般道徳も基づいて、何が良い事で何が悪い事かを認識しています。このような人達からは、善の行為を賛嘆し、悪の行為を否定する言葉が出てきます。そして、その言葉が何よりの励ましとなり、自らの行為が間違いではないことを再認識させてくれる有難い人達です。


 また、「因果応報」という言葉がございます。これは原因の「因」と、結果の「果」を合わせた言葉で、応報とは「行いに応じてその報いを受ける事」の意味があります。つまり、善行には善が、悪行には苦が、例外を除き自らにかえってくるということです。これを善因楽果、悪因苦果ともいいます。

 これらを考えると、苦しませてほしいという人はおそらくいないのではないかと思います。そうなればやるべきことは、誰から見られても誠実に努力をしていくことが大事です。それによって信頼してくださったり、助けていただけるのです。


 これまでは、社会的弱者(地位、名誉、肩書がない人達)が悲痛なる叫びをしたとしても、その声は世間には届かず、ただ社会的強者(地位、名誉、肩書がある人達)の思うままになってきました。しかし、近年では社会的弱者の声が世間に届くようになってきました。ただ、忘れてはいけないのは、社会的弱者の人達が声をあげるというのは中途半端な覚悟で言えるものではなく、全てを捨てる覚悟でもってやっているとしか私は思えません。「火のない所に煙は立たぬ」という言葉の通り、何もないのに労力を使って声をあげる必要がないからです。また、否定的な意見を言う人がいます。さて、自分が逆の立場(例えばパワハラなどを受けている場合)ならどうするのか、答えは言うまでもないと思います。

 不善には善をもって、放逸には不放逸をもって、不誠実には誠実をもって立ち向かうしかありません。その一つ一つの足跡が、みずからを救う要因になったりもします。

 私達は大人になり、特に地位や肩書を持つほど、発言力が増しますが、それに比例して社会的な責任というものは大きくなります。善いことをすれば賞讃が、悪いことをすれば責任追及が伴います。私は責任追及をされたくはありませんので、前者のような生き方をしてゆくために努力していきます。

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65 仏教とはなにか -仏教思想の歴史- ③

仏教解説

 いずれにしても、ブッダを一切智者と仰ぐという伝統が、インド仏教、またそれをそのまま受けたチベット仏教には明確に指摘されます。これをそのまま固く守るならば、以前に書いたとおり、仏教思想史の展開すべてを、その起点であるブッダに帰らなければならなくなります。

 また日本仏教においても、「ブッダに帰れ」という声が、もちろんないわけではありません。しかしそれよりもはるかに強く、日本仏教の性格がすでに奈良仏教以来、とくに平安仏教以降は、特定の宗派仏教として日本各地に広がったために、それぞれの宗派の開創者である宗祖に帰れと、たとえば最澄に、空海に、法然に、親鸞に、栄西に、道元に、日蓮に帰れというスローガンが繰り返し叫ばれており、それは現在もほとんど変わっていません。(宗祖の方々の敬称は略しております)

 以上のありかたは、仏教者における態度として固く信じてこられ、さらには議論を尽くされたといっても過言ではありません。それはそれとして、一切智・一切智者・各宗の宗祖も、みな滔々(とうとう)たる仏教思想史における一つの説として扱い、あくまで仏教思想史の成立、発生、展開を書いていきます。

 このことは、キリスト教の人達と同じといってもいいです。つまり、アンセルムス、トマス、オッカムといったスコラ哲学の系譜は、しばしばいわれるとおりに神学の侍女(アンチラ・テオロギアェ)としての中世哲学を、神学の軛(自由の束縛)から解放し、独立した哲学体系として、壮大で緻密(ちみつ:細部まで注意が行き届いて手落ちのないこと)な論理により確率した最も傑出したスコラ哲学者たちであることがよく知られています。確かに彼らによって、いわゆる信仰と哲学とが緊密に連携したスコラ哲学が完成されました。

 それと同じように、分析と総合との知性が最も強く明るい光輝いた「倶舎論」の筆者のヴァスバンドゥ(世親)や、さらに後期のダルマキールティ(法称)、シャーンタラクシタ(寂護)などが、前述した論証に活躍しています。そのうえ、これらの十分な論理体系の確保が、キリスト教世界にしても、インド仏教史においても、やがて衰退に向かおうとする直前の大事業である点が、興味あるできごとと評価されましょう。

 なお、以前に書いた「開祖ブッダに還れ」「教祖に帰れ」の声は、一部を除いて、その教説・教義に関してというよりは、むしろ既成教団の一種の安逸(何も努力せずに過ごすこと)・惰性・無気力などを覚醒(めざめ)させようとする精神的なアピールとみなすのが適切でしょう。*


*三枝充悳著 「仏教入門」

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64 仏教とはなにか -仏教思想の歴史- ②

仏教解説

 初期経典に関して、その形式などを綿密に精査して、新古を判定することは可能であり、現に判定しています。それは仏教思想研究に必須であり、すでに卓越した諸成果が知られていますが、それによる解説がブッダの全体に及び得るか否かは、まだ疑わしいです。

 こうして現在、ブッダの思想に関して、あくまでも不可避である文献学を通過したうえで、なんらかの記述を行ったとしても、その記述は、それを記述した研究者自らの研究態度とその堆積(たいせき)とに基づいて、それらを直接に反映するものに他なりません。つまりそれは、そこに記述されてあるブッダにではなくて、却ってその記述者ないし研究者に属すということが、すでに明らかにされています。

 文献学によるこのような厳しい現状をそのとおり熟知して、そのうえで、初期仏教の思想を書いていくにあたっては、それらの諸資料に基づき、検討しつつ、定説とされている諸成果にしたがって書いていきます。

 それには同時に、研究者自らの、つまり筆者であるわたくし自身の解釈が数多く付随し、時にはその解釈が諸資料の取り扱いを左右し、リードして、そのほうが記述中に対象となる部分を大きく取り上げられることも、大いにあり得ます。その意味では、さらに念を押していえば、仏教、とりわけ初期仏教思想の解明においては、研究者個人の「わたくしの仏教」という形式と内容とを取らざるを得ないことになります。しかし、ここではこれまで長く広く高く築かれてきた仏教文献学の方法論と成果とを受けて、その軸をできるだけ外さずに書き出していきます。

 さらにこの困難な研究課題に関連して、仏教学の内部には不可避で重大なテーマがあり、それは仏教の術語に出てくる「一切智者(いっさいちしゃ)」(サルヴァジュニャ)をいかに扱うかです。

 なお、このテーマはヨーロッパ中世のキリスト教とスコラ哲学において、神の全智(オムニシェンス)・全能(オムニポテンス)をめぐり、アンセルムス、トマス=アクィナス、ウィリアム=オッカムその他が、また現代の論理学者たちが、論理学的矛盾をつきながら、繰り返し論究しています。

 仏教における一切智者の問題は古く、長いです。この語はすでに、ブッダの生涯を記す「仏伝」の最初にあらわれています。つまり、五人の比丘への最初の説法(初転法輪:しょてんぼうりん)の少し前に、異教徒(外道)のウパカに対し、ブッダみずから「一切智者(一切勝者・無師独悟)」の宣言があり、それは古い五種の資料に韻文で伝えられています。しかもこの一切智・一切智者ということが、その後の仏教史を通じて説かれています。

 たとえば部派仏教の最重要書である「倶舎論」(破我品:はがほん)に、また初期大乗の「般若経」の各種テクストにも反復されます。とくに後期大乗には、七世紀のダルマキールティ(法称:ほっしょう)や八世紀のシャーンタラクシタ(寂護:じゃくご)といった大論師(ろんじ)、さらにはそれ以降の論師たちが、インドの正統哲学をも巻き込んだ論争おこない、その中に一切智者を論証したという経緯も、最近は明らかにされています。*


*三枝充悳著 「仏教入門」

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