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~苦しみの分だけ幸せになれる~

日常の出来事の中で気が付いた事を少しずつ書いていこうと思います。

60 仏教とはなにか -西暦紀元前後- ②

仏教解説

 クシャーナ王朝の二代の隆盛の後を受けて位に即(つ)いたのがカニシカ王です。この王の年代は長年学会の問題になっていましたが、西暦紀元後百二十年、もしくは百四十四年に即位したということに落ち着いたようです。カニシカ王については、貨幣や碑文などの他に彼の等身大の立像(首は失われた)などの考古学資料が残っています。

 中国や日本の仏教徒はアショーカ王と相並んでカニシカ王を重んじます。カニシカ王が仏教を保護したことは、ガンダーラからカシュミールにかけて多く残存している仏教の建造物の遺跡から見ても明らかですが、彼が発行していた貨幣を見ると、彼は仏教のみに限らずその他インド、ペルシア、ギリシアの諸宗教をも認めていたことが知られています。始めには他の宗教を奉じていて、後に仏教徒になってから仏教の貨幣を作ったとも解釈されていますが、おそらく多くの宗教を同時に認めていたのではないでしょうか。王が仏教に入信するようになった動機については二三の説話が伝えられていますが、それらは伝説の類いであって、実際は外国出身の王としては、この土地を統治する政策上から、民衆の宗教に対して感心を示す必要を感じたからに違いありません。この点から見ても、当時すでにこの土地で仏教が民衆の間に盛んであったことが推察できます。

 王は仏教経典の編集を主催したといわれていますが、実際は仏教のうちの一派(説一切有部:せついっさいうぶ)の一大著述の編集を後援したという程度でしょう。事実この著述(大毘婆沙論:だいびばしゃろん)は一気に書き記されたものではなく、長い年月にわたってこの派の多数の仏教学者が研究した結果を総合的にまとめたもので、おそらくその最終的の形に成立したのがカニシカ王の治世のことであったものでしょう。このきわめて大部の書物はこの派の学説の集大成であって、仏教の書物として類例のない一大文献です。原文はサンスクリットで書かれたものと推定されますが、現在では漢訳だけしか残っていません。(中国において漢字に翻訳した後、原典を破棄したため)

 この「説一切有部」という一派はカシュミール地方を本拠としていますが、彼らの自ら言うところによれば、アショーカ王の頃意見が受け入れられないため、マガダ国から別れてこの土地に来たといいます。教義の上では、セーロンを本拠とする分別説部と多少似ています。ただし分別説部の経典がパーリ語で書かれているのに対して、説一切有部ではサンスクリットを用いています。説一切有部の系統はその後も主として西北インドからシナ、トルケスタン地方に栄えますが、それがカニシカ王の勢力範囲の中心にあたることは注目されます。

 説一切有部は、その名の示すように「すべてのものは実在する」という説を唱えるもので、多くの存在要素(七十五法)の集合離散によって、あらゆる現象を説明します。いうなれば、多元論的実在論を説くものです。これは苦・無常・無我というブッダの教説を哲学的に説明するために考えられ、組織されたものです。「現象を後世する存在要素そのものは実在であるが、それらによって作り出される人間の世界は、永続する実在ではない」この道理を悟ってニルヴァーナ(涅槃)に達するというのがこの派の中心思想です。*

*渡辺照宏著 「仏教のあゆみ」
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59 仏教とはなにか -西暦紀元前後- ①

仏教解説

 西暦紀元を中心として、その前後百年余りの間にアジアの西部に大きな民族移動が行われました。この移動は西北インドにも影響を及ぼし、更にまた仏教の運命にも関係してきます。

 遊牧民の月氏(げっし)は長く甘肅省(かんしゅくしょう:中国北西部にある省級行政区)の西部に住んでいましたが、紀元前百七十年頃同じく遊牧民である匈奴(きょうど)に追われて西方に移動しました。その数は五十万から百万と推定されます。月氏族は新彊省(しんきょうしょう:現在の新彊ウイグル自治区に設置された行政機関)の北西部を通過し、トルケスタン(トルキスタン)に入り、イリ河流域の烏孫(うそん)族を退け、更に西に進んでジャクサルテル(シルダリア)河の北岸のサカ族(塞種:スキタイ人)を追い払いました。サカ族は追われて南方に移住し、その中の一部はイラン高原に定住し、また一部は次第に西北インドに侵入し、パンジャーブ地方に居をかまえました。

 ところが匈奴は烏孫を助けて再び月氏を攻めたので、月氏は更に西に移動し、オクスス(アムダリア)河流域に至りました。ここはアレキサンドロス大王以来のギリシア植民地があったパクトリアの土地でしたが、月氏はここを征服してオクスス北岸のソグディアナ地方に定住しました。次第に遊牧の習慣を捨て、ついには定着民として生活するようになりました。

 月氏ははじめ五つの勢力に分裂していましたが、紀元後四十年頃、クシャーナ部族の首領(後のカドピセス一世)が、月氏族全体を統一して王と称しました。カドピセス一世は月氏をひきいてヒンドゥクッシュ山脈を越え、アフガニスタンからパンジャーブ北部を征服し、数世紀依頼そこに根を張っていたギリシアやパルティアの系統の勢力を駆逐し、ついには西北インドの主権を握るに至りました。

 その子カドピセス二世もまた父の遺業を継ぎ、北インドの領土を拡張し、その勢力はガンジス河流域にも及び、ベナレスまでも支配したといいます。この王は兵七万を動かして漢と戦いましたが、班超(はんちょう:中国後漢の軍人)に敗れました。漢の勢力はこの頃から西域地方(シナ・トルケスタン)に及びますが、月氏は西域とインドとの両方に関係しているので、中国とインドとの文化の交流、特に仏教の伝える上に重要な意味を持ってきます。

 月氏は、また陸路ローマとの交易を開き、絹・香料・宝石・染料などを売ってローマの黄金を獲得しました。月氏王はこれを用いて金貨を鋳造しましたが、当時南インドのアンドラ王国も、海路による海外貿易において月氏の貨幣を使用しました。*

*渡辺照宏著 「仏教のあゆみ」

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約束

日常

 私たちは日常で約束というものをします。約束とは、「ある物事について将来にわたって取り決めること(広辞苑)」というほどの意味です。書面上ではないので確実とは言えません。これはお互いの信頼関係において成り立ちますし、約束をしておいて破らないというのが大原則です。これがなければそもそも約束ということの概念がなくなってしまいます。

 過去から現在において、自らの行いを反省し、改善していこうと考える人は、何を言わなくても約束したことは100%ではないにしろ、守るために最大限努力をします。しかし、その約束を簡単に反故にする人がいるというのも事実です。

 「約束していた」と言ったとしても、上述の後者は、大体において開き直り、水掛け論(双方が互いに言い張ってはてしなく争うこと)にしてその場を乗り切ろうとしたのをこれまでにたくさん見てきました。その中で約束を反故にした人が言っていたことは「書面で残してない」でした。ここで、世間的に書面というのがいかに強いものかというのを痛感させられました。確かに書面で双方が互いに納得し、署名と捺印をすれば、言った言わないの水掛け論にならず、覚えていないというのも通用しないからです。

 そもそも「約束」というのは何でしょうか。私は最初に書いているように、約束とは信頼でしか成り立たないので、それを裏切る行為がそもそも間違っているとしか思えません。しかし、信頼している人に裏切られるということはたくさんあります。かくいう私もこれまでに散々裏切られてきました。裏切られたのを目の当たりにすると、愕然とし、はらわたが煮えくり返る思いをし、無気力になり、そのせいで周囲にいる人達に多大なる迷惑をかけてきました。それでも私は信頼をしたいし、できればいい関係を築きたいと考えてます。綺麗事と言われるかもしれませんが、人を信頼できなくなったら愛想もなく交流もしません。その結果誰からも信頼されなくなり、孤独に人生を送らなければならなくなります。そのような生き方は本人が一番苦しいのではないでしょうか。

 私たちは普段から簡単に「約束」をします。その大前提は相手を信頼することであり、約束をした側はそれを最大限守る努力をするというのがもちろん含まれています。守る守らないは本人次第ではありますが、どちらにしても自らの行った責任は自らにかえっていき、どれだけ避けようとしても必ず帳尻を合わせなければならない時がきます。長い年数避け続けたとすると、その年数分責任はより一層重くなります。そのようなことにならないよう、反省すべき点は素直に反省し、信頼されるに足る人間になるべく、努力をしていこうと思います。

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58 仏教とはなにか -アショーカ王の後- ⑤

仏教解説

 アンドラ王国では仏教と並んでバラモン教も大いに栄えました。バラモン教の信者が仏教僧侶のために石窟を作ったこともあり、宗教間の反目はまず見られなかったようです。王と諸侯たちは仏教を保護しながらバラモンの色々な祭式も行い、馬祠さえも遂行しました。近代のインド教の代表的な神、シヴァの崇拝も広く行われました。このようにこの王国では色々な形態の信仰が相争うことなく栄えたのでした。このような背景を理解しておくことは次の時代に表面化する仏教の新しい動き(大乗)の起原を理解するために非常に重要です。仏教史をひもとくと、南天竺のバラモンが仏教僧侶となったという記事がありますが、それはこのアンドラ王朝やその後継者の治下における出来事です。

 このようにして、仏教はその勢力を著しく伸ばしていきますが、その反面においては、このような環境においては知らず知らずのうちに仏教そのものが変化していったに違いありません。アショーカ王の近いしたようなブッダの教えにおいては、血なまぐさい犠牲を伴う祭式は許されるはずがありませんでした。その場合には二つのうちのいずれかを選ばなければなりませんでした。アショーカ王は仏教を選び、プシヤミトラはバラモン教を選びました。(なお、古代ヨーロッパでも同じで、民族の祭式の供犠を復活しようとした皇帝ユリアヌスは、キリスト教徒からは「異教徒」と呼ばれた)

 しかしアンドラ王国では事情が違っていました。彼らはもともとアールヤ人ではなかったから、バラモン教もまた彼ら自身の民族宗教ではありませんでした。バラモン教も仏教も、ともに文化的に優勢な北インドのアールヤ人から輸入したものでした。ここでは宗教に対する寛容さが徹底していました。つまり、根本的に相異なる宗教を同時に進行することもできたのでした。このようにバラモン教も仏教もこの土地ではそれぞれ互いに影響しあって、新しい形態を発展させることができました。

 仏教史について見ると、大体西暦紀元頃から以後に、マハーヤーナ(大乗)が盛んになり、その派の学者が相次いで新しい学説を展開させ、それと並んで大乗経典が次々に世に現れてきます。同じマハーヤーナといっても、菅らずしもすべて同じ思想ではありませんが、前の時代の仏教(ヒーナヤーナ:小乗)と比較すると次の点が注目できます。

 第一、小乗では個人的な悟りが重要なので、厳格な僧団生活が要求されましたが、大乗では実際生活との密接な関係に重点をおき、広く万人の救済を問題としていました。

 第二、大乗では宗教的な情操(優れたもの)方面を発展させ、ブッダを神格化し、他の菩薩たちと一緒に、信仰の対象とするようになりました。小乗ではブッダ釈尊を修行の模範としていました。

 第三、つまり礼拝の対象として仏像その他の礼拝像を製作するようになります。古い時代の仏教はブッダを形の上に表現することをむしろ避けていました。

 第四、これと関連して宗教的芸術的な文学作品が盛んに編集されるようになります(大乗経典)。しかし、これらの新しい事が起こり始めたのはかなり古く遡るものと考えられます。

 大乗はある意味では思想的発展であるとともに、ある意味では仏教の大衆化でした。前の時代の仏教の派のうちでも、大衆部は始めから俗人の信者と提携していましたが、大丈夫においては更にその傾向が勧められます。

 大乗仏教の起原は南インドのみにあるわけではありません。ある意味では、それにも劣らず西北インドではマハーヤーナの誕生のために重要な役割を演じました。それは、やはり外来の支配者の統治下においてのことでしたが、今度はギリシア人ではなく、別の民族でした。マハーヤーナそのものの説明に移る前に、まずクシャーナ王朝のカニシカ王とその背景について見てまいりましょう。*

*渡辺照宏著 「仏教のあゆみ」

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57 仏教とはなにか -アショーカ王の後- ④

仏教解説

 アンドラ王国の名は古く「ブラーフマナ書」にも現れ、ドラヴィダ人の国として知られていました。ヴィンドヤ山脈の南にあって、東に流れるゴーダーヴァリー河とキストナー河との流域を占有し、マウルヤ王朝のチャンドラグプタ王の頃には、十万の歩兵、二千の騎兵、一千の軍象という非常に強力な軍隊を所持し、城壁を廻らした三千の都市を有していたと言われています。アショーカ王の頃はマウルヤ王朝の支配下にありましたが、この偉大な王の没後ただちにアンドラ王国は地方分権の気運に乗じて、西にも勢力を及ぼし、ゴーダーヴァリー河の源近くまで国の領域を収めましたが、ついに西暦前二十八年頃、前に述べたようにカーンヴァ王朝を倒して中央にまで進出したのでした。アンドラ王朝は西暦紀元後二百二十五年滅亡するするまで続きました。この王朝の治世には領土拡張のための戦乱も多かったのですが文化的にも隆盛で、王の中には自ら文学を十分に収めているものも何人かいました。

 またそれと同時に、商工業も栄え、様々な特殊技能者も多く(医師、薬剤師、書記、黄金細工人など)職業別のギルドも発達して銀行の機能を持っていました。この王国はまた外国貿易によって莫大な利益を収めました。

 こうした物質面の豊かさの庇護のもとに、宗教もまた大いに栄えました。現在もデカン地方に数多く残っている仏教の石窟は、ほとんどすべてこの王朝治下にできたものです。これらの石窟は仏教僧侶が雨季の間滞在するために作られたもので、壁画で有名なアジャンターの石窟群もその例です。山の傾斜を利用して作り、堅牢な石造で中に木造の骨組を施したものもありますが、大体において大規模で多数の僧侶を収容することができます。後にはインド教などの石窟もできましたが、もとは仏教のために作ったものが多く、全インドに散在する約一千二百の石窟のうち七十五パーセントは仏教に属するといいます。石窟には礼拝堂があり、その奥にストゥーパ(塔)を祀っています。ボンベイの東南百キロ余りの地点にあるカールリーの石窟は有名ですが、正面の入り口から入り、左右に並ぶ石柱の列に導かれて奥のストゥーパに達します。奥行三十九メートル、幅十一メートル、高さ十三メートルの壮大なもので、柱に施した彫刻がまた素晴らしいです。この礼拝堂の両側には三層の石窟の僧院があります。

 これらの石窟を維持し、僧侶の生活を保証するために各村落や地方は、近くの都市のギルドに投資し、その収益によって賑わいました。仏教僧侶に寄贈される新しい法衣もそういう方法で作られました。つまり少なくともこれら石窟が多数残っているボンベイ周辺数百キロの地域では、僧侶の生活は保証され、修行や思索に専念する余裕が十分にあったであろうことが想像できます。*

*渡辺照宏著 「仏教のあゆみ」

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